女性「9条の会」ニュース48 号 2019 年10月号

 

1面  

   今戻ろう、日本国憲法のもとへ            浦島悦子 (ヘリ基地いらない沖縄二見以北十区の会共同代表)

                                                                

  エメラルドグリーンに透き通るイノー(内海)、サンゴ礁に砕ける真っ白い波の花、紺碧の外海。ため息の出るほど美しかった辺野古・大浦湾はいま、コンクリートの護岸で囲まれ、ダンプや重機が走り回り、赤土混じりの土砂が連日投げ込まれる。各種選挙はもちろん県民投票まで行い、これ以上ないほどはっきり示され続けている「新基地NO」の民意も、沖縄県の指導も、国内法もすべて無視し、国家権力とそれを支えるゼネコンが、沖縄戦・米軍占領下の基地建設・「復帰」後の乱開発からも辛うじて生き残った「奇跡の海」「生物多様性の宝庫」をひたすら破壊するこの愚行を、「国家犯罪」と言わずして何と言えるだろうか? そして、司法さえ官邸の下僕と成り下がった中で、この犯罪を裁く者はいない。
 民主主義も地方自治ももはやなく、私たち地域住民の基本的人権=自然の恵みの中で静かに暮らしたいというささやかな願いは踏みにじられたままだ。イノーが育む豊かな海草藻場を餌場とし、有史以来、人々と密接なかかわりを結んできたジュゴンもこの海から追い出され、行方不明になってしまった。意志を示すこと。ひとりの勇気は、人の輪につながらずにはいない。それが力になる。
 この地域に、「寝耳に水」の新基地建設問題が持ち上がり、子や孫たちの未来を破壊する基地はいらないと、私たちが住民運動を始めて 年。その解決を見るまでは「死ねない」と頑張っていた辺野古のヨシおばぁが今年三月、107歳で亡くなった。 年前の彼女の姿が蘇る。「問答無用」で工事を強行する現在と異なり、当時はまだ国の役人とも「問答」する余裕があった。「工事をさせてほしい」とやってきた役人たちと住民が膝を突き合わせる中、当時すでに 歳を超えていたおばぁは住民の先頭で役人に話しかけた。沖縄戦がどんなにひどいものであったか、戦後生き延びてこれたのは海があったからだと彼女は語り、「海は命の恩人。基地に売ったらバチが当たる。どうしても造るというのなら私を殺してから行きなさい」と迫った。ウチナーンチュである役人はその言葉にただ涙を流し、何も言えずに立ち去った。
 「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないように」「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」という日本国憲法前文には、第二次世界大戦後の廃墟の中、日本国民のみならず世界中の人々の痛苦な反省と熱い希求が込められている。「この世のありったけの地獄を集めた」と表現される地上戦を潜り抜けたウチナーンチュにとってはなおさらであったに違いない。しかし、それを最も必要とする人々は、米軍政下はもちろん「日本復帰」後も今日に至るまで、なおそこから遠い。
 日本国憲法が国家権力の手によって弊履のように捨てられようとしているいま、その「恩恵」を受けてこなかったウチナーンチュこそが、その精神を日々実現し、活かそうとしているのは歴史の皮肉だろうか。辺野古の基地ゲート前で、基地建設のための作業ダンプを止めようと非暴力で座り込む県民を排除する県警機動隊に、「私たちは憲法に保障された正当な権利=表現の自由を行使しています」と私は呼びかける。排除されつつも若い隊員に戦争や軍政下の体験や教訓を語りかける年配者。その言葉に涙ぐむ若い隊員。苛酷でありながら、そこは憲法の学校でもある。
 戻ろう、日本国憲法のもとへ。沖縄からはその道が見える。全国民がその道を一緒に歩けば、困難を乗り越え、必ず辿りつけるだろう。
   
                                                             
 
                                       

2面〜6面                 女性「9条の会」憲法学習会      
                                                  
日時 2019年9月12日  於 東京ウイメンズプラザ
 
                                 一市民の誇りにかけて

                
           
       
                 講師 落合 恵子さん

                           (クレヨンハウス主宰・作家)

◆「言葉って何だと思う?けっして言葉にできない思いがここにあると指さすのが言葉だ」


  重い病気にかかって亡くなられた最愛の妻みづえさんのために出版された、詩人長田弘さんの言葉です。本当にギリギリまでの「思い」はもしかしたら言葉にはできない。可能な限り言葉にしようと願いながら、言葉にできない思いを抱きつつ、それを言葉にしていくという、それが私たちの生き方なんだと思うのです。すべて言葉にできることが正しいとは思わない。あるいは言葉にしているつもりでも、できないものがあるのだというためらいとか、それらを心に抱えながら生きていくのが私たちの人生なんだと思います。

 

◆「私から年齢を奪わないでください。この年齢は私が働いて働いてようやく手にしたものです」

 メイ・サートンという米国の女性作家の言葉です。今もってこの国は女の価値は若さであり、若さというのはそれほど体験を積んでいないということであって、偉い人の言うことをそのまま信じてしまうということでもあるかも知れないのです。私がメイ・サートンが大好きな理由はたたかう作家だからです。私はたたかわない人とはお友だちになりたくないと思うのです。ほんのちょっとでも表現の能力を持っている人間が、その表現を使わないでどうしますか。忖度して尻尾を振って美味しい思いをして、でも自分の一番大事なものを売り渡してどうしますかという思いがあります。

◆「秋の花は驚くほど精力的で変化に富んでいる。実際、円熟した秋の花は幼い春のそわそわした一時的な衝動に比べると、咲き方がはるかに力強く情熱的だ」

「秋の花は驚くほど精力的で変化に富んでいる。実際、円熟した秋の花は幼い春のそわそわした一時的な衝動に比べると、咲き方がはるかに力強く情熱的だ」

◆「ありがとさん、ありがとさん、花が咲いたよ。私も咲くよ」

 新潟の米農家の大家族の長男の嫁と言われた人からの絵手紙です。戦前の家族制度の中で女性は人間として扱われていなかった。長男の嫁は労働力として数えられていたのです。その中で彼女は生きて、嫁に行ってから自分のしたことは、自分を消すことだった。自分の欲望、自分の望みを、自分の夢を全部消すことしかしなかった。そして夫の両親を見送り、夫を見送り、子どもたちは独立し、一人になったとき彼女はこんな絵手紙を書いてくれたのです。
 私たちの母や祖母、多くのこの国の母と呼ばれる女性は、「私も咲くよ」までたどり着けたのでしょうか。私は自分の母について書いたりするとき、いつもその問いがあるのです。                             

◆『泣きかたをわすれていた』と私


 母の介護についてはエッセイをたくさん出しています。介護していた頃は母を病院に連れて行くわけですが、この対応の仕方はおかしいなと思うことがよくありました。でも医師全般に関してこうして欲しいと書いているつもりでも、読む医師は自分が言われていると思うに違いないと思うと書けませんでした。私にはこの気持ちを抱え続けるのは辛すぎますし、日本の医療を変えたいと思うのです。大病院の大名行列って恥ずかしいでしょう。でもよほど誰かが声を上げない限り慣習ってそのまま続いていく。そこも含めて、『泣きかたをわすれていた』という本を書きました。

 

◆「生まれてきてくれてありがとう」

 冒頭は「お母さん」、そう聞こえた。少しくぐもった囁くような声で、私(冬子)はようやくたどり着いた言葉を引き寄せるように、声帯を震わせるように、そんなように響く「おかあさん」。まぎれもなく自分の母親という人に、お母さんと呼ばれた娘は一体どうすれば良いのということから始まります。
 主人公は母と同じように1945
年、一人の娘を産みました。そのとき彼女は結婚していませんでした。今でこそシングルマザーという言葉で現実を少しだけ軽くし、あるいは現実を糊塗することに役立っている言葉でもあります。 年前、小さな町で、教師の家庭で、人一倍、人にどう見られるかを気にする人々でした。しかも戦争末期です。シングルで子どもを生むというのは許しがたいことであったでしょう。「世間体が悪い」「恥知らず」「家の敷居またぐな」「一切縁を切る」祖母から受けるあらゆる言葉の中で、当時 歳の冬子さんもその設定になっています。
 「なぜ落合さんはそんなに、人権とか平和とか言うのですか」と聞かれる度に戻って行くのはこの母との関係なのです。中学2年か3年の時に母に「お母さんは何で私を産んだの?」と聞いたことがあります。とても残酷な質問でしたが、聞かないと私は明日にいけないと思い、理由を聞きたかったのです。だって苦労することは想像できたはずです。その時彼女は「お母さんはあなたのことが本当に欲しかった。あなたのお父さんに当たる人をお母さんは大好きでした。あなたのお父さんもきっとそうだったと思う」それを聞いたとき、私はとても直情的な言葉だと思いました。仲の良かった幼なじみが焼夷弾で死んだというのが当たり前の時代だったのです。「人の命って何てはかないのだろうと思ったとき、お腹にあなたがいると気付いて、何があってもあなたを産むと決めたんだよ」。でもその後は針のむしろのような日々だったでしょう、 何年前ですから。反対されて、どこか田舎で産んで、その子を誰かにあげてしまいなさいと言われたり、でも彼女はどうせ産むなら自分が生まれ育った栃木県のこの町での出産を決意して、私を産んで、抱きしめて「来てくれてありがとう」と言ったのだそうです。
 子どもの本の専門店は今年で 年目に入っています。みんなが「うそ!」って言うほど続いています。続けられた理由は「あなたが生まれた夜、来てくれてありがとうとあなたを抱きしめたのよ」という言葉、それが私を励ましているのです。

◆「差別という〝窓〟を開けていく人になってくれたら五重丸あげる」

 その後の話は聞いておいて良かったと思うのです。「あなたは生まれたことによって戸籍は明らかに差別的な記載になって、これから先たくさんの差別を受けるでしょう。」これは就職の時も問題になりました。「でも世の中には他にもたくさんの差別がある。身体が不自由な人への差別、精神的な障害のある人、その両方がある人への差別、あるいは病のある人への差別、病になって一番辛いときにその病ゆえに差別される。」後になってそれが何のことか分かったのですが、「いろいろな差別が世の中にあって、その中の一つが生まれに関する差別なのだ。あなたは生まれた頃、それより少し前のもっと生めよ増やせよの時代、産まれてきた子どもが両親のいる家庭か、あるいは片親の家庭かによって、明らかに差別があるんだよ。でもね、これから先、可能な限り差別という〝窓〟(あるいは〝戸〟)を開けていく人になってくれたらお母さん嬉しいし、いろいろなところで苦しんでいる人と手をつないで、手を離したらまた次のところで手をつないで、世の中の差別を無くしていく方向に歩いてくれたらいいんじゃない、それで。成績悪くてもいい。お金がなくてもいい。これだけをやってくれたら他の人がいくらバツを付けても、お母さんだけはあなたに五重丸を付けてあげる。一回しか言わないから、これは覚えて置いてね」。一回しか言わないって力ある。すごい力があると思うし、今でも辛くなったときには、「あの時お母さんはああ言っていたよな。他は駄目でもお母さんは五重丸付けるって言ってくれたのだから、私は行くよ」と思ったりするのです。
 次の世代の子どもたちには血が繋がっていることが全てではないだろうと思うのです。血が繋がっていることが全てだと考える社会においては、他人種をいつも差別し、侵略の対象にしてきた。ならば、私は血のつながりがないから、「生まれてきてくれてありがとう」と言える大人になりたい。そんな思いがとても強くなったのです。冬子さんが、いろいろなことがあったけれども、頑張っていられた理由の一つです。

 

◆頑張らないで生きていける社会を作らなかったら嘘だよ


 私の母はいつでも人に対して共感しようとした人でした。それは否定すべき事ではありません。でも時々切なくなります。彼女の心は限りなく共感して欲しいと思いながら、一度もそれを叶えられなかった。母の心はいつも人のために向いていた。それは否定すべき感情ではないだろう。他者の傷みに鈍感であるより、優しさははるかに良い。けれど、時々私は考えることがありました。「よくやっていらっしゃいますね」という心からの、「あなたを私はちゃんと見ていますよ」という評価、そういったことを何よりも、本当は母自身が欲しかったのではないのか。それらを他の誰かに差し上げることによって、母は心の隅で貯めてきた空洞を無意識のうちに自分で埋めているのではないかというとても切ない思いが私の中にあるのです。そしてそれはこの国に生きる多くの娘たちが、既に見送った人であろう母や祖母の世代に対して抱くところの切なさではないかなと思うのです。ですから先ほどお話した「ありがとさん、ありがとさん、花が咲いたよ、私も咲くよ」というその一人の思いに共感する私がいるのです。この本の中で、力を込めて書いた場所、私の母を「よく頑張った人ですね」と評価してくださる人がいます。私もそう思います。でも頑張らないで生きていける社会を作らなかったら嘘だよと思うのです。もともと多くの人とは違う人生を選ぶ人はそれだけで辛いことなのに、その人たちが更に頑張らなければいけない社会って、明らかに間違っていると私は思うのです。母は内側に向けた痛みを、私は外に向けた痛みを、そして母はそのような状況の中で私を育てる。当時お母さんが働くって珍しい時代だったのですが、就職もし、本当に頑張ってくれたけれど多分完璧を目指しすぎたのです。ピーンと張った糸は切れる。こちらが手を離せば飛んで行ってしまいます。彼女はその糸を緩めることができないまま、神経症という症状の中に入っていきました。多くの方は自分の親が神経症ですと、今はようやく言えるようになったけれど、まだ、ためらう人がいます。なぜって、差別を受けるからです。その差別をなくすために立ち上がらずに、必死に隠すことに全エネルギーを使う社会って、不健康です。不健康であるからこそ、私はシングルマザーの娘で、私の母は神経症で長い長い間苦しみました。あえて言っているのは、本来ならば彼女のプライバシーですが、隠さなければいけないというストレスを自分に与えている社会であるならば、そしてそう思っている人がいるならば、私は表現者の一人として、「私は父親のいない子どもで、そのことでいろいろ言われたよ。そのことで母親も傷ついたよ。そして彼女はちょっとだけ自分が背負った荷物を下ろせる場所として、神経症という症状の中に入って苦しみ続けたよということを書き続けたい。語り続けたい。それが私のささやかなるミッションだという思いがあるのです。
 「なぜ女の人権ですか?」と問われたら、勿論私もセクシャリティで言うなら女ですが、他の女性が女性であることで不利益を被っていれば、彼女の無念さは私の無念さなのです。
            

◆「人生は一冊の本である」


 『泣きかたをわすれていた』で、一番私が書きたかったこと、主人公に托しているのはこの言葉です。「人生は一冊の本である」と記した詩人がいた。もしそうであるなら、今日まで私はどんな本を書いてきたのだろう。これを書いたときは 歳。 年の私を生きた年齢という本を、もしそれに色があるなら、私は何色なのだろう。単色ではないだろうな。どの色が勝っているだろうと私は考える。確かなことは一つ、若いと言われる年齢にいた頃、気が遠くなるほどの長編と思われた人生という本は、実際には驚くほど短編だということ。人は誰でも平凡な、けれども一つとして同じものはない本を一冊残す、そして死んでいく。書店にも図書館にも誰かの書棚にも置かれることのないたった一冊の本。誰かがその人を思い出すとき、ページが開く。その人がこの世から立ち去ったとき、その本も直ちに消えます。今私が考えているのはこのことです。 代の頃はもちろん、 代でもまだまだ人生は続くと思っていますが、こんなに長いと思っていた、長編小説と思っていた人生がこんな短編だったとはと、しみじみと心に刻んでいます。そして短編であればこそ、最後の数ページ、あるいは数行かも知れないのだけれども、私は私のためにどう生きるか、自分で頷ける生き方をどうしていくか、人に褒めて貰おうなんて思わない、自分で頷くために自分の誇りをどう大事にしていくかというのが大きなテーマの一つなのです。

◆一色だけの報道は恐い


 ここに来て「嫌韓報道」が盛んですが、これは本当に恥知らずな醜い報道だと思いますが、年代も人種も身体的状況も、精神的状況も生き方そのものもいろいろある。いろいろがなくて一色ほど恐いものはありません。ところが今年は春からこの国は報道のあり方が、余りにも一色になりすぎている。恐い時代が来てしまったと思います。春は改元です。元号が変わるということで、メディアは朝から晩までそのことばかりでした。次は「吉本」。続いて「あおり運転」。あれは反対ですというキャンペーンは勿論いいのですが、容疑者と言われる人達の小学校の友達を出して、「どんな人だったか」などと聞くことにどんな意味があるのですか?そんな無駄な時間使うなよと思いますが、そして、ここに来て、韓国に対する嫌悪そのままの、ヘイトスピーチがそのままテレビで流れてるような報道です。私は書かなければならないので、1日半ぐらいワイドショーをずっと観ていて、どうしようと思いましたよ。韓国に観光に行かれた若い女性が韓国の男性から暴力を受けた事がありましたね。それは許せないことです。それに対して韓国の人達は申し訳ないと言っているのにも関わらず、ある番組で大学の先生、男性ですが「韓国から日本にやって来た女性たちを、日本男子が暴行しなければいけない」というようなことを言ったのです。公の場所でそんなことが言えるって何なのでしょう。そしてそれをそのまま
流すディレクターは何なのでしょう。
これは困りますと言うべきですし、場合によってはその場で退場させるべきでしょう。人に暴力を振るいましょうという言い方なのですから。かつて私のいた報道の王者と呼ばれている局で、ワイドショーでそのようなことが行われているということに、「ああ変わってしまったんだな」と無念でしかないですね。
 同時にテレビにちょっと距離をとってしまっている私たちがいて何も言わない。ジャーナリズムというのは基本的により強いものを監視するために存在するものであるにもかかわらず、もう誰もウオッチしていないと、強いものに尻尾を振ってしまう社会になってしまうと思うのです。

 

◆「忘れさせていく装置」

 「私たちの社会は、私たちが直面しなければいけない問題を忘れさせていくための装置が山ほどあります。3・ 当時、その一つが「ナデシコジャパン」でした。あの時代に何で「ナデシコ」なんですか、「サムライ」もそうですが、日本はいつまで経っても何かを引きずっていると思うのです。あの命名はおかしくないですか?という問いかけがなければいけないのですが…。3・ からちょっと経ったとき私が書いたのは、「その内、オリンピックが全部を消していく」というものでした。私たちは忘れさせていく装置に乗ってはいけないということを書いたのです。ひとたび事故が起きて、それを市民の頭の中の記憶の中から消そうとするとき、必ずそれを上回るであろう大きなお祭りを持ってくるのは、日本だけではないでしょう、どの国にも共通する一つの流れです。
 来年はオリンピックです。今更と鼻の先で嗤われながら、私は今でもオリンピックに反対です。考えてください。今もって福島でどれだけの人が苦しんでいるか、今もってどれだけの人が癒えぬ思いと、大きな災害で修復されないものを抱えている人がおられるか、例えば今日でも千葉の一部は停電です。台風は仕方がないという、この時代において本当の意味で備えることができないと断言することが誰にできるのですか。
 藤原さんとおっしゃる方が、ウチの雑誌にこういうことを書きました。「今こそ防衛ではなく、防災に必死になるべきだ」と。彼は幼いお子さんのいる京都大の准教授です。そうです、防衛ではなく防災でしょう。台風だから仕方がないで落ち着いて良いのでしょうか。本来できるはずの準備があったのに、お金がないからなど、いろんな理由はあるでしょう。じゃあイージスアショアは、あの金額は何なのですか。イージスアショアがやってきたからと言ってどれだけの人が安心しますか。あんなものを持ってしまったら反対に不安になるでしょう。にもかかわらず、私たちの税金は許可も取られないまま好き勝手に使われています。私はそれが納得いかないのです。そしてなぜ彼らの支持率が上がるのですか。誰が上げているの? 私の周りには上げている人は一人もいないのに、「何で?」と思いませんか。
今回の組閣見ました?「沖縄の新聞社は潰してしまえ」ということを言った人が文科省トップですよ。子どもの教育をどう変えるのですか。そんなに戦争をしたいのか。そんなにこの国の子どもたちやその子どもたちの命を、自分の手の平に握って好きにしたいのか。私には分からない。憲法を変える必要はどこにありますか。今のままで十分であることはみんな知っていますよね。そしてどうしても環境について入れたいなら、その一行を加えれば良いじゃないですか。そんな基本すらもどこかに行ってしまっている。メディアの中には「おかしいと思います」と言っている人もいますが、ほとんどがすり寄っている。特にテレビはひどすぎです。少し勉強しろよと言いたくなります。
 でも私が社員だったらどうする?ラジオ局に私は勤めていました。勤めていた 代から 代の始め、おかしいことは「おかしい」と言ってきたつもりだけど、最後の最後のところで、じゃあ「お前異動させるぞ」と言われたら私は黙ったかも知れない、この仕事をやりたいと思った、あるいはその仕事をやっているそのことが大事なんだと思った時、私も黙ったかもしれない。それは好きでその仕事に就いた人々のある意味で宿命的な話でもあるのですが、それでも、毎日ケンカしなくてもいいから100回に1回は「おかしいと思います」という異議申し立てぐらいしなくて、一市民として生きていけますか?

 

◆「personal is political」─個人的なことは政治的なこと


 もう 年近く前、セクシャルハラスメントという言葉が広がらない時、この言葉を使いたくて『ザ・レイプ』という性暴力を告発する小説を書きました。その理由は、彼女の痛みは私の痛みだからです。私に書かせてくれたのは人には言えないことを手紙に書きますと、ご自分が受けた被害を克明に書いてくださった少し年上の女性たちという存在があったからです。日本は遅かったけれど、ようやく「MeTooの運動」が広がりを持ちましたね。でも私たちは何もできなかった。どうしても広げたかったので、新聞の広告欄に出すことにして、第一稿の時は横文字は嫌だから「強姦」としたかったのですが、「そんなに自分が被害者になるのが嫌だったらスカートをはくな」と言われました。本当に大文豪たちが言ったのです。どんな服装をしていようと、どうしてこんなことが言えるのだろう。人権意識が本当にないのだと思いました。それは今でも続いているのですよね。伊藤詩織さんの事件だってそうだし、この事件のもっとひどいのは権力がねじ伏せたことです。彼女の痛みは私の痛み。私たちの社会にどれほどの痛みの元があるのか、そして多くは政治からスタートします。若い頃大好きだった言葉があります。
 「personal is political」、個人的なことは政治的なこと、あなたが今不幸な中で苦しんでいたら、それは個人的なことだと思いがちです。自分が悪かったから、自分が努力しなかったから、自分が頑張らなかったから私はここで苦しんでいると。でも現実はほとんど個人的な不幸と思えることは、政治がつくり出した社会の力学によるものなのです。貧困なんてまさにそうでしょう。あるいは自分が何かの被害者になった時、私に隙があったんだと自分を責めている人には、「いいえ、それは男性社会、男性優位社会の中での政治力学があなたの不幸をつくってるのよ」と言ったとき、景色は変わるでしょう。そして多くの場合、苦しんでいる女性たち、あるいは男性たちを含めてpersonal is personalに終わっているのです。だからこの社会は「安泰」なのです。そこはしっかり見極める私たちでありたいなと思っています。
 だから私は、母を苦しめた社会をこれ以上の苦しみを与えない社会にするために、もしかするとpoliticalな活動をしているのかもしれません。 

 

紹介してくださった本


『ベイビーレボリューション 』      (クレヨンハウス)                           
『ハグくまさん』  ニコラス・オールドランド  (クレヨンハウス)
『ルピナスさん』  バーバラ・クーニー    (角川マガジンズ)
『はなのすきなうし』  マンロー・リーフ   (岩波書店)
『その手がおぼえてる』 トニー・ジョンストン    (BL出版)

『泣きかたをわすれていた』        (河出書房新社)
『てんつく怒髪 3/11 それからの日々』  (岩波書店)
『自分を抱きしめてあげたい日に』    (集英社新書)

 

■感想より


・とんでもない内閣の成立、憲法改
悪への道、日韓問題などなど。頭がカリカリになっていた時に数々の含蓄のある言葉を教えていただき心が少し柔らかくほぐされていくようでした。豊かであたたかな心の世界があってこそ本当に社会の理不尽に怒ることができるのでしょう。素敵なたて髪に拍手です(70代)。
・はるか昔、恵子さんのお母様が私生児の恵子さんに対して素晴らしい言葉をかけて誇りを持って恵子さんを育てておられました。そのお母さんの言葉に随分私も力を頂き、自分を育て自分を支えてきました。私も私生児です。お母様に勇気を頂いたそのお礼の気持ちを是非お届けしたく書かせて頂きました。恵子さんと同じ齢です。(70代)
・おかしいと思える社会に対して、絶望せずに発信するエネルギーを得た気持ちです。絵本いいです!(50代)
・共感することばかりでした。私も色々な場で声をあげ続けていきたいと思います。(50代)
・言葉の力を感じたお話でした。無念だったり、くやしい思いがする日々ですが、「誇りをもって生きていくためにあきらめてはいけない」というメッセージを強く感じました。ご紹介された本を読んで自分の支えになる言葉を見つけたいと思いました。(40代)
・世の中にはびこる様々な差別が私たちの少しずつの努力によって解消し、次の世代の人々がより生き易い社会になればと願っています。落合氏のお話をお聴きして、あきらめずに行動を続けていらっしゃる姿にとても勇気づけられました。2015年から国会前の反安倍政権の集会に参加していますが九条改憲は絶対阻止したいと思います。 また福島の人々の苦しみを他人事とは思えず、毎年子どもたちの保養活動にボランテイアとして参加していますが、様々な問題を忘れずあきらめずに頑張っていかなければと思います。(60代)

 

 

テレビ局におかしいと思ったらすぐ抗議しましょう!

近頃、テレビ局は、本当におかしいと思いませんか。昼のワイドショーなど、各局「嫌韓」の枠を超えたヘイト報道で怖くなるくらいです。スポーツ放送で局のメインの報道番組が飛んでしまったり、考えられないことが起こっています。別紙でテレビ局のFAXや電話を書いておきました。どんどん電話しましょう。「右」側の意見の方はしつこいように抗議するようです。私たちもおかしいと思ったら抗議し、いいと思ったらよかったと発信しましょう。

       

 

 

 


               

 

 

 

 
 

 

 

ページトップへ