女性「9条の会」ニュース41 号 2017 年8月号

 

1面  

アベ独裁の影で

 見えなくされた女性作曲家たち                     小林 緑(国立音楽大学名誉教授 )
 

都議選からほぼ一か月…アベ降ろしの民意が着実に、そしてかなりのスピードで高まってきた。外出時には欠かさずバッグにぶら下げている「アベ政治を許さない」のタグを見つけ、「それ、いいですね」「どこで買えるんですか」などと声をかけられることが以前より増えた気がする。
 それにしても、なお独裁が暴走するこの国。私自身は五月中頃、辺野古での座り込み中に、機動隊員二人に軽々とゲート前から排除されてしまった、国費で自国民を暴力的に襲う非道を七五歳で実体験したこととて、そのショックは言葉に尽くせない。七〇年代ウーマンリブを主導した田中美津さんが「若者に期待する前に私たちが…」と高齢者を募るユニークなツァー「この子、は沖縄だ」に、二月に続き二度目の参加だったが、まさに、福島と沖縄の国内植民地化政策の恐ろしさを目の当りにした想いである。
 実は「国内植民地」なる概念は、七月二九日、クレヨンハウス・落合恵子さんの「朝の教室」にて、講師の高野孟さんから教えられた。 九〇分間目いっぱい、巨額予算を武器や基地にばらまく半面、原発避難者をいかに棄民扱いしているかを、詳細なデータを示しつつ説かれた高野さん。ぶれないリベラル派の、誠に頼りがいのあるジャーナリストだが、反自民の受け皿たる民進党の立て直し策として、連紡・辻元・山尾の女性三役を進言されてもいたという。

 私の本業は二〇年来「女性作曲家」を広めること。直近では六月四日、練馬区男女共同参画センターで講演会を持つことができた。過去に行ったコンサートのCDとDVDを活用しつつ、クラシック音楽とジェンダーについて、言いたい放題をお許しいただいた。参加者からは「こんな素晴らしい女性作曲家たちが見えなくされていたなんてひどい」という声が数多く寄せられた。
 七月二日には小金井市主催で「女性が紡ぐ音の世界」と題し、ヴァイオリン、チェロ、ピアノによる室内楽のコンサートを実施できた。五人の女性作曲家と三人の演奏者、どちらについても、お客様の反応はこれ以上望み得ないほどで、「女性作曲家」は初体験だったけれどもっともっと知られるべき!という雰囲気が、満場を覆っていた。
 ちなみに六月一六日、東京新聞夕刊は、反戦のプロテスト・ソングとして有名な『イマジン』(1971)が、オノ・ヨーコとジョン・レノンの共作であるとようやく公式認定され、以後作曲者として必ず夫妻の名前が記されることになったと報じた。練馬と小金井で配布した拙編著「女性作曲家ガイドブック2016」に掲載の女性二六人に限ってさえ、あったことをなかったことにするアベ流歴史修正主義はもはや通用しない…このことはいくら強調してもしすぎることはない。
    

                                          (女性「九条の会」世話人)

 


2面〜6面   女性「九条の会」憲法学習会        日時 2017年7月7日  於 文京男女平等センター

  盧溝橋事件から80年 戦争の始まりを考える
  
         講師 関 千枝子さん(ジャーナリスト・女性「九条の会」世話人)


 《第一部》DVD「重慶爆撃は何を招いたか」上映

 
 今の天皇が「忘れてはいけない日」として、六月二三日、八月六日、八月九日、八月一五日を挙げられました。それは評判がよろしいのですが、私もその日は大事な日だとは思いますが、それらは戦争の終わりの惨憺たる被害を受けた「被害の日」ばかりです。他に忘れていけない日があるのではないかと思うのです。そこで七月七日と、九月一八日にこだわっているのですが、この日のことを忘れておられる方が多いのではないかと思うのです。
 最近戦争を知らない人が多いので、戦争の被害を伝えようという機運が高まっていて、空襲の体験などは話されているのですが、ではどうして戦争になったのかと言われるとわからなくて「あらどうだったのかしら」ということになってしまっているようです。
 私の同級生でも「一九四一年一二月八日までは平和で、とても良い国だった」と言っている人もいるくらいです。中国への侵略の歴史が忘れられているのです。私は忘れてはいけない日の七月七日の今日を学習会に選ばせていただきました。
 あの戦争についての呼び名は、戦時中は「大東亜戦争」、戦後は「太平洋戦争」、今は「アジア太平洋戦争」と呼ばれていますが、一五年戦争と呼ぶ人もいます。日本が、一九三一年の九月一八日に満州事変(柳条湖で、関東軍が南満州鉄道を爆破した事件)を起こしたことに端を発し、一九三七年七月七日に起きた盧溝橋事件(北京郊外の盧溝橋付近で演習中の日本軍に対して射撃がおこなわれたとして中国軍との間に衝突が起こる)を契機に、当時「支那事変」と呼ばれた「日中戦争」が始まり、あっという間に北京(当時は北平)を占領しますが戦いは膠着、その後上海に駐留していた海軍の将校が殺されたことに引っかけて在留邦人の保護を理由に「第二次上海事変」を起こします。この海軍将校が殺された事件も〝ヤラセ〟と言われます。「第一次上海事変」もヤラセでした。ヤラセ→邦人保護→出兵、安保関連法でも邦人保護が言われますが、「邦人保護」の恐ろしさを知る必要があります。上海占領後、南京(当時の首都)に向かい、そこで起こったのが「南京大虐殺」です。その時に日本軍がレイプなどあまりにも悪いことをしたので、レイプを防ぐためとして「慰安所」を開設したと言われています。日本では南京が陥落したので戦争は終わったと思い、提灯行列などをして喜んだのですが、国民政府は降参せず、武漢に都を移します。日本軍はそこも四ヵ月で攻め落としてしまい、蒋介石は奥地の重慶に都を移します。ところが重慶は水路でも陸路でも進軍できるところではなかったため、日本軍は空襲をおこなうわけです。
 私は空襲のことは新聞などで知っていましたが、どんなにひどいものであったかは知りませんでした。「悪い支那をやっつけている」と思っていました。この空襲は民衆の家を爆撃することによって戦意を失わせる作戦でした。最初に民衆の家が爆撃を受けたのはスペインのゲルニカですが、次は重慶爆撃なのです。ゲルニカはピカソが描いたので有名ですが重慶爆撃のことはあまりにも日本人は知らなさすぎると思います。この爆撃は二〇〇回以上という大変なもので、世界を震撼させましたが、この民衆爆撃は東京空襲の元になったと言われています。この空襲のことを中国、日本双方の資料から検証したドキュメンタリーをご覧ください。

 

《第2部 講演》 「教育勅語」ってなあに

■ 教育勅語は憲法違反

 安倍首相が「憲法や教育基本法に違反しない形で教育勅語を教材として用いてもかまわない」ということを言っていました。「教育基本法」は第一次安倍内閣の時に改悪されているのですが、「道徳」にはじまり、あらゆる教科に教育勅語的道徳を取り入れることになっているようですが、「教育勅語」は絶対君主の明治天皇が〝臣民〟に下したものなので、天皇を「象徴」としている今の憲法に違反しないなどということはあり得ないことです。
 みなさん教育勅語が存在していたことはご存じだと思うのですが、実際にこの「奉読」を聞いたという方は少ないのではないかと思います。中には「良いことも書かれている」と言う人もいます。「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉ジ…」これは「戦争になったら戦争に行って一生懸命に戦いなさい」という文言で、これには問題があるけれども、「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ…」は悪いことではなく、むしろ大事なことではないかと言う人もいます。そういうことを教科書に載せることは悪いことではないのに、それを悪者にするのは(非国民的な)間違った平和主義者であると考える人が増えることが恐いと思います。
私は「教育勅語」の教えが日本人の心に染みこんでしまったことが、戦争につながったと思っているからです。

■歴史を見ていきます 

 一八八九年(明治二二年)二月一一日に大日本帝国憲法が発布されます。「維新」から二〇年余、ずいぶん孝時間がかかったとと思いませんか?「明治維新」は欧米諸国の属国にならずに日本を近代国家にしたと、プラスの歴史ばかりが言われていますが、私は王政復古だと思っています。薩摩にしても長州にしても一藩だけでは幕府は倒せず、天皇を担ぎ出し「維新」に成功したのですが、民衆に天皇のことを教えるため政府はまず「教育」に力を入れました。それから天皇家は軍隊を持っていなかったので徴兵制を敷いて国民皆兵にします。国民皆兵にはかなり抵抗があり反対運動がおきました。庶民が兵士になるなど考えられなかったからです。そのため政府は明治一五年に「軍人勅諭」を発布します。ようやく憲法ができ、天皇制国家は確立します。その思想の普及、徹底はやはり「教育」です。政府は憲法発布の翌年の一八九〇年に「教育勅語」を発布します。
 一八九一年、小学校に「御真影」(天皇・皇后の写真)を下付し、教育勅語の厳重管理を訓令します。この年、第一高等学校の卒業式で内村鑑三が教育勅語に拝礼しなかったということで不敬事件として大騒ぎになりました。同年六月には「小学校規則大綱」がつくられます。
※ 「第2条 修身ハ教育ニ関スル勅語ノ趣旨二基ヅキテ児童ノ良心ヲ啓培シテ其徳性ヲ涵養シ道徳ノ実践ヲ指導スル」
 一八九三年、文部省は学校の祝祭日の儀式に歌う歌を選定して公示します。
※ 元旦・紀元節・天長節。昭和になってからは、元旦・紀元節・天長節・明治節。これらは重要な祝日で四大節といい、この日は学校で式をすることになっていました。(普通の祭日は休みで式はなかった)。
 内容は、
一、職員及児童ハ君が代ヲ合唱ス。
二、職員及児童ハ天皇陛下、皇后陛 下ノ御影ニ対シ奉リ最敬礼ヲ行フ
三、学校長ハ教育ニ関スル勅語ヲ奉 読ス 
四、学校長ハ教育ニ関スル勅語ニ基 キ聖旨ノ在ル所ヲ誨告ス 
五、職員及児童ハ其ノ祝日ニ相当ス ル唱歌ヲ合唱ス
などとなっていて、この時にすでに君が代と教育勅語と祝日の歌がセットになっていました。その日は壇上にご真影が飾られ、教頭が白手袋をはめ、お盆に教育勅語をうやうやしく載せて持ってきて校長に渡す。校長はそれを読む。もし間違えたら校長はクビになると言われていました。この時児童はじっとしていなければなりません。鼻をすすってもいけない。二分間なのですが、これはものすごく辛い時間でした。ちょっとでも動いたらひっぱたかれたのです。終わりに「御名御璽(ギョメイギョジ)」と読み上げます。何のことか意味はわかりませんが、子どもたちにとって「御名御璽」は終わりの印なので、一斉に鼻ををすすり、動き出します。
 学校によっては、「勅語奉答歌」という歌を唄わされたところもあるようです。式ごとに「紀元節」の歌とか「正月の歌」などという歌がありまして、私は今でも歌えますが、教育勅語とセットになっているわけです。森友学園の幼稚園の子どもたちは「教育勅語」を暗唱していましたが、私には覚えさせられた覚えはないけれども、覚えてしまっています。ただ聞いているだけで覚え、身体に染みこんでいるのです。 

 

■教育勅語の何が問題か 

 教育勅語について「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」だけが悪いと言う人もいますが、私は、「朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ…」の部分が重要な部分だと思っています。「忠孝」です。当時私たちは国民ではなかったのです。天皇の臣民だったのです。ですから教育勅語は臣民に給わりたる言葉であったのです。帝国憲法の精神は近代的な憲法だったという方もいますが、「神聖にして侵すべからず」」の天皇がいて、天皇は元首であり、大元帥でもあり、国家神道の祭祀の長でもあったのです。その天皇への「忠」であり、絶対に逆らえないものでした。天皇の下に置かれている「家」、つまり日本は「家」国家です。家長である父に対する「孝」、この忠と孝が国のかたちであったわけです。戦時中、軍隊で「上官の命令は天皇陛下の命令である」と言って兵は絶対服従でした。私は原爆投下の時に広島におりまして、病気で休んでいて助かったのですが、親に留守番を頼まれて休んだために助かった
人が「私は親の言うことを聞いて休んだのだ。親の言いつけを聞くことは天皇陛下の言われることなのだ」と言うのです。彼女は休んで助かったことに心の痛みを感じるので、そのように自分に言い聞かせていたのだと思うのですが、要するに「忠」と「孝」はセットなわけです。「克ク忠ニ克ク孝ニ」のあとは、「一旦緩急アレハ…」につなっがっていくわけです。
 「悪いことばかりではない」という言う人は「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ…」を挙げます。
 みなさん「夫婦相和シ」をどう思いますか?
 今のように夫婦が平等だったわけではありません。「夫の言いつけに従う」、それが良い「相和す」夫婦なんです。「兄弟ニ友ニ」、しかし「姉妹ニ友ニ」はありません。姉妹はどうでも良いのです。家制度のもと「弟は兄を助け、仲良くしなければならない」ということですが、女の子は結婚して他所に出されてしまう存在だからです。女性は家の都合で結婚させられる存在でした。織田信長の妹お市は大変美しいので浅井家に嫁に行かされるが、織田と仲が悪くなると浅井は殺され、お市は臣下のところに二度目の結婚。長女茶々は秀吉の子どもを生みますが、妹は徳川二代将軍の妻になり、姉を滅ぼします。姉妹仲良くなんかできません。女はどうでもいのです。

 

■奉安殿は防火づくり 

 奉安殿は学校には必ずあるものと思われている方が多いのですが、私の学校には奉安殿はありませんでした。あれは実は学校が火事になって御真影が焼けてしまった事件以降につくられたものです。小説家・久米正雄が『父の死』を小説にして発表していますが、久米正雄のお父さんが校長をしていた学校が火事になってご真影が焼けてしまいます。そのため、「なぜお前は死なないんだ。なぜ責任を取らないんだ」と周囲からやいのやいの言われ、三日目に自殺をされます。それ以後、当時の木造の校舎ですと火事になったら焼けてしまうので、奉安殿だけはコンクリートで立派なものにして、そこに教育勅語と御真影をしまっておくということなっていたのです。公立の学校でも奉安殿のないところも多かったのですが、日中戦争期にあらたにつくるところが増えたそうです。
 明治政府は、一八九四年に日清戦
争を始め、一九〇三年には小学校「国定教科書」制度を始めます。「教育勅語」のあとに「国定教科書」をつくるのです。それから日露戦争があり、大逆事件(社会主義者幸徳秋水らが明治天皇暗殺計画を企てたと明治政府が捏造し、幸徳をはじめとする全国の社会主義者や無政府主義者を逮捕、起訴、死刑判決を下した事件)を経て、第一次世界大戦への参戦で「軍事大国」になり、日中戦争、太平洋戦争と戦争ばかりする時代になります。その根底に、教育勅語の教えがあると私は思うのです。

■自然に身体に浸み込む教育勅語

 私は教育勅語を覚えさせられた記憶はありません。古い友人に聞いて見ると七割ぐらいは覚えさせられたと言うのですが、三割ぐらいは覚えさせられた記憶はないと言います。つまり「規則」の中に「暗記させろ」とは書いていないのですね。教育勅語の基礎は、あくまで式での奉読なのです。不思議なことに私も暗記させられた覚えはないのに、今でもほとんど言えるのです。何度も聞かされるということはすごいことだと思うのです。覚えさせられたと言う人は、小学校四年と五年の修身の教科書に教育勅語が載っていて、四年生の時に覚えさせられて五年生でそれをチェックされたといいます。男友達の話ですが、上の学校の試験のとき、勉強ではなくて腕立て伏せができるかとか教育勅語を言わされたので覚えたという人もいます。でも彼も低学年の時は内容などはまったくわからないわけです。彼は「夫婦相和シ」を「夫婦はイワシ」だと思っていたそうです。私も「朕惟フニ」の「朕」は犬のチンだと思っていました。でも、わからなくてもいいんです。覚えてしまうのです。私どもの年代の人は、父母も「教育勅語」を知っているわけです。だから何の疑問もなく受け容れるのです。ある人はお手伝いさんが「朕思うに我がコソコソ(皇祖皇宗)」と言って赤ん坊をくすぐって笑わせたと言っていました。そういう形でもどんどん広がっていったのです。
 四年五年の修身の教科書に載っていて、それを筆で書き写したという人もいます。昔の漢字で鉛筆で書いても難しいです。それを四年生の子が筆で書くというのです。内容はわからなくても良いのです。夫婦はイワシでもいいし、御名御璽が終わりの印でも良いのです。只じっと聞いて覚えてしまえばいい。とにかく天皇陛下の言うとおりにすればいい、それが私たち臣民への教えなのだということがわかれば良いのです。天皇は神様であって天皇の言うことは全て正しい、天皇の言うことは聞かなければいけないと思うようになれば良いということなのだと思います。
 それが本当に恐いと思います。 だから道徳をしっかり教えられたはずの日本臣民が、戦場に行くと「上官の命令は天皇の命令」と無抵抗のアジアの民衆を殺し、女性をレイプし「鬼」と恐れられたのです。

■戦後の動き

 一九四五年九月一五日、文部省は「新日本建設の教育方針」を発表します。それには「今後ノ教育ハ益々国体ノ護持ニ努ムルトトモニ、平和国家ノ建設ヲ目途トシテ…」と書いてあります。国体の護持がどれほど大切だったのかがわかります。
 一九四六年二月には、地方教育課長会議での田中耕太郎文部省学校教育庁の訓示は、「教育勅語は我が国の醇風美俗と世界人類の道徳的な核心に合致…いわば自然法」ということを言っています。
 しかし、同年四月には、米国教育使節団に協力する日本側教育委員会の報告書では、「教育勅語は天地の公道を示されしものとして謬理には非ざるも時勢の推移に連れ国民今後の精神生活の指針たるに適さざるものであるにつき、あらためて平和主義による新日本の根幹となるべき…
詔書をたまわりたきこと…」と言っています。またあらたな勅語がほしいと言っているのです。
 一九四八年に衆議院と参議院で教育勅語は止めることになるのですが、それまで教育勅語が残っていたのです。一九四八年の参議院の文教委員会で、羽仁五郎議員が「たとえ完全なる真理を述べていようとも、それが君主の命令によって強制されたといういうところに大きな間違いがあった」と発言、これによって、教育勅語は廃止されます。


■教育勅語復活の兆し

 しかし、その後一九五〇年になって天野貞祐という文部大臣が学校の祝日行事に国旗を掲げ、君が代斉唱を進める談話を発表し、「日本には道徳的基準が必要として修身科を復活する必要がある、日本の道徳的基準は教育勅語であった」と発言しますが、批判を受けて公表は取りやめます。しかしこの後もずっと「教育勅語」を復活したいという議論が続きます。
 「戦争と学徒の青春を考える会」といって、学徒出陣を経験した人
や勤労奉仕を経験した人が出した本がありますが、その中にも「教育勅語が懐かしい」という人達がずいぶんいるのです。何も悪いことは言っていない、日本は道徳的規範がないからこのような国になってしまったと言うのです。この会の方はかなり戦争について考えている良心的な方たちなのですが、「教育勅語」がいかに日本人に染みついているかを考えてしまい
ます。

 

■「教育勅語四〇年説」

 私の毎日新聞社の先輩に千田夏光という人がいまして、慰安婦の問題を書かれたことで有名ですが、彼は「教育は四〇年で完結する」と言っています。教育勅語が出されてから四〇年後に何が起きたかといいますと、一八九〇年の四〇年後、一九三一年に満州事変が起きます。日露戦争の時に戦争に反対した人達も戦争の方になびいてしまい、「満州はいい国だ。王道楽土だ」と満州国建設の理念に荷担します。こんなバカな話はないと思うのですが、それはやはり、「教育勅語四〇年」に関係があるのではないかと思うのです。
 「教育勅語」を教わった子が成人して、その子どもが学校に行き大人になる、四〇年くらいかかります。四〇年で教育が完結するのです。彼は「一九五六年四月、教育委員会が公選制から任命制になったときから四〇年後の一九九六年に大変なことが起こるよ」と言いました。実際この年に「日本会議」や「つくる会」の動きが始まるのです。千田夏光氏の「教育四〇年
説」は参考になると思います。
 今、「教育勅語」が道徳の中に入ってきていると言います。まさか式に昔のような奉読はできないだろうと思うのですが、でも考えて見ると式には君が代・日の丸が定着してしまって、それをおかしいと思わない人が増えているということで、何かがあるのでないかと思うのです。それは何かわからない形で入ってくるかも知れないのです。例えば「忠」「孝」という思想
が、「個人」ではなく「家庭や家
族を尊重する」という形で入り込んでくる。私は前からテレビのドラマでやたらに「家族」が強調されていることが気になっていましたが、家族自体は悪いものではありませんから誰もおかしいと思わないようです。しかし、「家族は守らなければいけない」、「家族は助け合わなければいけない」ということで介護や生活保護などが家族責任に変えられていく、そういう形で入り込んでくることを恐れます。家族が言われるうち、いつの間にか「家族制度」になる。憲法二四条もゆらぐ、それが恐ろしいのです。私は教育勅語が戦争の始まりだと思っているので、今日の集会でこの話をさせていただきました。    完
   (女性「九条の会」世話人)

 

 

今 沖縄で…その二

                               久手堅幸子(くでけんさちこ)【新婦人・沖縄県本部】

 二〇一四年七月、安倍内閣が「戦争法」を閣議決定し、辺野古大浦湾に工事着工した日から、ゲート前での本格的な座り込みがスタートして一一二〇日余が経ちました。連日早朝七時から座り込み、集会、強制排除、拘束、工事車両三〇~五〇台が排気ガスをまき散らし基地内へ入っていくとその繰り返しです。美しい海岸に無骨なテトラポットや大石が投げ込まれていく様は悲しく、怒り、憤りしかありません。けれど、一見、いかにも進んでいるかのように見えますが、県民にあきらめさせるための見せかけの工事でしかなく、これからの工事が翁長知事や稲嶺名護市長の許可なくしては進められず、海上での本格的な工事も止まっている状況です。
 さらに、七月の東京都知事選や那覇市議会選挙における自民党の
                         問い合わせ  wam ☎ 03〜3202〜4633
 

 

今 沖縄で…

                            宮良 瑛子(旧姓 藤崎  (沖縄女流美術家協会顧問)

 二〇一四年七月、安倍内閣が「戦争法」を閣議決定し、辺野古大浦湾に工事着工した日から、ゲート前での本格的な座り込みがスタートして一一二〇日余が経ちました。連日早朝七時から座り込み、集会、強制排除、拘束、工事車両三〇~五〇台が排気ガスをまき散らし基地内へ入っていくとその繰り返しです。美しい海岸に無骨なテトラポットや大石が投げ込まれていく様は悲しく、怒り、憤りしかありません。けれど、一見、いかにも進んでいるかのように見えますが、県民にあきらめさせるための見せかけの工事でしかなく、これからの工事が翁長知事や稲嶺名護市長の許可なくしては進められず、海上での本格的な工事も止まっている状況です。
 さらに、七月の東京都知事選や那覇市議会選挙における自民党の大敗は、県民に勇気を与えました。来年度の名護市長選、那覇市長選、そして県知事選で必ず「オール沖縄」を勝利させようと燃えています。
 地上戦から「生命どぅ宝」を県民の教訓として引継ぎ、祖国復帰運動、基地反対運動、辺野古新基地建設反対のたたかいの中から「オール沖縄」が誕生しました。「オール沖縄」は県民の誇り、希望です。全国の「こんな人たち」そして仲間のみなさん
「勝つまであきらめない」を合言葉に自公政権を終わらせるまで共に頑張りましょう。
  
                                           (女性「九条の会」賛同者)

 

使途が明確な基金です。沖縄支援・連帯の意思を具体的な行動で示す方法だと思います。

 <送金先名称> 辺野古基金 全て普通預金 

  沖縄県労働金庫県庁出張所 953 3406481 ゆうちょ銀行(電信) 17000-13659411
       
琉球銀行県庁出張所    251 185920 ゆうちょ銀行(払込取扱票) 01790-5-128966

沖縄銀行県庁出張所    012 1292772   コザ信用金庫那覇支店  017-2032531
  
沖縄海邦銀行県庁内出張所 102  0082175   沖縄県農業協同組合本店 780-0024403

みずほ銀行那覇支店    693-1855733

    問い合わせ先 辺野古基金事務局 〒900-0029 那覇市旭町 112-1 金秀ビル内
           TEL:098-943-6748 / FAX:098-943-6893
       

               

書籍紹介『緊急出版 総理大臣の無知と無恥』

 女性・ジェンダーを中心に、平和、環境も含めさまざまな社会的イヴェントやアクションに出かける私は、いつも関連書籍や冊子類を、カンパの気持ちも込めて買い求めてしまう。気が付けば我が家は未読のそうした本で埋もれてしまいそう…。
 そんななか、「これは!」と一気に読み切った緊急出版がある。斎藤芳弘著『総理大臣の無知と無恥Ignorance & Impudence of the Japanese Prime Minister 』(2017/6/26初版、愛育出版、本体価格(1500円) 。著者が執筆とグラフィック・デザイン系の仕事を両立されている方だけあって、赤と白を基調とした装丁もとてもおしゃれで、持ちやすい。肝心の中身はタイトル通り、あまりにお粗末な安倍語録50点を、時系列に沿って発言の出所とともに収録。それぞれに冷静・的確なコメントを付した最後の締めは、いつも同じ「日本国民にとって問題なのは、こんな人が総理大臣であるという不幸です」。しかも付録で現憲法と自民党改憲案を対照させるべく、手つかずの現憲法を黒字で、改憲案で追加された部分を赤字で、省略された部分を緑色で、と鮮やかに色分けして載せてあり、この部分だけでも貴重な参考資料になる。地元杉並の知人から紹介されたこの快著、一人でも多くの方が手にしてほしい。   (小林緑記)

 

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