女性「9条の会」ニュース58 号 2024 年4月号

 

1面  

  憲法をもっとあなたに

 ~四谷姉妹 奇跡の軌跡を爆走中~                                                                  

                                           青龍美和子(弁護士)  


  同僚の岸松江弁護士とおそろいのピンクのドレスを着て「四谷姉妹」として憲法漫才をしています。2人とも、東京都新宿区の四ツ谷にある東京法律事務所の弁護士です(本当の姉妹ではありません。)。普段は、2人とも弁護士として、労働事件を労働者の権利を守る立場で取り組んだり、DVや離婚、性暴力被害の救済など、とくに女性の権利を守る活動にも取り組んでいます。
 私たちがデビューしたのは2018年 月です。当時、安倍政権の下で、憲法の解釈が次々と変更され、秘密保護法、安保法制、共謀罪など、悪法が国会で強行採決、憲法の人権条項や平和主義の理念がズタズタにされていました。
 しかし、憲法改正に賛成か反対かを問う世論調査では、賛成が3割、反対が3割、「よくわからない」「どちらでもない」が4割という結果に。
どうしたら憲法の魅力を「よくわからない」という多数の人たちに知ってもらえるか、悩む日々でした。
 ある日、おかっぱ頭にメガネをかけた2人は「私たち似てない!?」と意気投合。敬愛する阿佐ヶ谷姉妹さんを真似て、四谷姉妹を結成しました。
 デビュー当初はダダ滑りしたことも(涙)。その後、コロナ危機にめげず、「ユーチューバーになろう」と決意。事務所全体の協力を得て、YouTubeで憲法漫才の動画を次々と配信しました。
 ある日、動画を見た東京新聞の記者さんから「面白い!」「わかりやすい!」と取材を受け、2022年5月4日の東京新聞の一面トップに掲載されました。東京新聞の記事をきっかけに、西日本新聞やファッション雑誌「SPUR」にも掲載され、熊本県民テレビの生放送にも出演しました。相乗効果で多方面から公演や執筆の依頼が来ています。今年1月には、テレビ東京の「モヤモヤさまぁ~ず2」にも出演しました。
 サービスで配信、YouTubeでミュージックビデオも公開中です。現在、新曲を作成しています。
 女性団体に呼ばれて公演することも多く、「ジェンダーと平和」をテーマにお話ししたり、ジェンダーコントも披露しています。最近はNHK朝の連続テレビ小説「虎に翼」に大はまり。日本初の女性弁護士をモデルにした主人公と自分を重ねて毎朝胸を熱くしているところです。
 「憲法」と聞くと、「カタい(Katai)」「関係ない(Kankeinai)」「興味ない(Kyominai)」という「3K」のマイナスイメージがありませんか?私たちはそのイメージを、憲法って「セクシー(Sexy)」「素敵(Suteki)」「好き(Suki)」の「3S」に変えたいと思っています。
 楽しく笑いながら憲法とはどんなものなのかを知ることができれば、憲法を身近に感じられ、好きになってくれるのではないかと信じて、これからも活動していきたいと思います。



2面〜8面             女性「九条の会」学習座談会報告 
                      
                                
日時 2024年4月20日 14:00〜   於 文京区男女平等センター

          

        ジェンダー平等社会を実現するために

     ~ご存知ですか?女性差別撤廃条約の「選択議定書」~                                                                  

                                       山下泰子 (文京学院大学名誉教授)  


                    

◆ 敗戦時、わたしは6歳だった


  私は、昭和 (1939)年3月5日生まれ、先月、 歳になりました。今までは赤松良子さんに、いつも「あなたは私より 歳若いのだから」と言われていましたので、いくつになっても「 歳若い」と思っていたのですが、「100歳まで現役」と豪語しておられた赤松先生が2月6日に天国に行ってしまわれて、残された私は、3月5日に生身の 歳になりました。
 そして、「命ある限り戦争はさせない」とおっしゃっていた赤松先生亡き後、私も戦争の記憶の語り部になろうと決意しました。


◆わが家から200m先に爆弾が…


 昭和 (1944)年 月、私が5歳のとき、いきなりわが家に戦争がやってきました。わが家では、常々父が、練馬大根の畑と雑木林の広がる大泉学園に、爆撃があるはずがないと申しておりましたから、何の備えもしていませんでしたが、いきなり、200m先に爆弾が落ちたのです。大きな穴が開いて、ゴボウが散乱していました。そして、硝煙の匂いが漂っていました。あの匂いがいまも記憶の中にあります。大人たちは、所沢にあった中島飛行機の工場に爆撃に行った帰りに残りの爆弾を投下して行ったのだと言っていました。


◆命からがら、赤城のふもとに疎開


 母は9カ月の身重でしたから、父のふるさとの赤城の麓に疎開することになりました。東飯能から八高線で高崎にでて、渋川に向かいました。尋常でない混み方で、父が「妊婦がいます、妊婦がいます」と叫ぶので、母は恥ずかしかったと言っていました。もちろん、ずっと立ったまま。小さな私は、必死になって空気を吸うのがやっとでした。
 田舎の家でのお産はそれは大変でした。灯火管制の下、養蚕をする大きな農家でしたので、少しでも敵機に明かりが見えないように、1階の開口部には、暗幕を貼り巡らせ、2階の養蚕室には、むしろが下げられました。居間が産室になり、村のお産婆さんと叔母さんたちが4、5人でお産を助けていました。母は、産褥熱で 日も床から起きられませんでした。戦争中のお産は、本当に大変でした。
 被爆直後に原爆ドームの地下で赤ちゃんをとりあげ、翌日亡くなったお産婆さんのお話「産ましめんかな」ほどのことではないかも知れませんが、戦時下での出産は、命がけでした。そうして生まれた弟が、2022年 月に 歳で膵臓ガンで亡くなってしまい、世の無常を感じます。

◆集団疎開と子どもたち

  弟の首が座ると、母と祖母と生まれたばかりの弟と私は、父が校長を務める東京第三師範学校(現東京学芸大学)附属大泉国民学校の子が疎開してくる村に移り、農家の納屋を借りて住んでいました。私は、疎開先の勢多郡新里村の国民学校で、昭和 年4月、最後の国民学校1年生になりました。
 附属の子どもたちは、その村の3つのお寺に分かれて集団疎開をしてきました。高学年からはじまって、最後は入学間もない1年生も小さなからだに大きなリュックを背負ってやってきました。その日は、私も村人に交じって、「たけい」という駅で、日の丸を振って迎えたのを覚えています。父と一緒にお寺を訪問して、広い本堂で、1年生がお昼寝をしているのを見たこともありました。何だか遠足のようでうらやましかったです。
 この前の日曜日、4月 日に同期会をしたのですが、1年生で集団疎開をした友だちが、その時のことを話していました。4月 日の大空襲で焼け野が原になった池袋を通って、「天皇陛下からお菓子を貰える」と言われて、命からがら赤城の麓にやってきたのだそうです。食べるものがなくて、畑の桑の実を食べると口のまわりが紫になるので、先生にばれて叱られたとか。2年生の男の子がひもじさに耐えかねて青梅を食べて亡くなり、勿論、親はその死に目にも会えませんでした。もう電車は動いておらず、赤城の麓の村から、一番若い体育の男の先生が、120キロの道を大泉の親元に知らせに走ったとのこと。その先生に同窓会でお会いするたびに、「あんたのお父さんに走らされた」と言われました。安全なつもりで預けた子どもが、疎開先で亡くなったのは、ご両親にとっては、とても納得できなかったに違いありません。青梅を食べなければならなかった子どもは、更に哀れです。戦争が、一番弱い子どもに襲い掛かかるのは、ウクライナもガザも、 年前の日本も同じです。

◆クラス名簿に
    父の名のない子どもたち


 戦後間もなく、私は、東京に帰り、東京学芸大学附属大泉小学校に編入しました。クラスの名簿には、戦死したため、父の名前のないクラスメイトが何人もいました。
 近所に戦災孤児を収容する養護施設があり、附属の子はよく石をぶつけられたりしました。農家は、焼け出された子どもを養子にして、朝から晩まで働かせていました。夕方になると、菊田一夫作の「鐘の鳴る丘」がラジオから流れてきました。「緑の丘の赤い屋根、トンガリ帽子の時計台、鐘が鳴りますキンコンカン メエメエ子ヤギも鳴いてます。」戦災孤児のお話でした。


◆国旗掲揚も軍艦マーチも認めない

 都立大泉高校に進むと、もっと父の名前のない友人が増えました。生徒会では、父親が戦死した先輩が大演説をし、「戦争にかかわることは一切やらない」と宣言して、運動会では、国旗掲揚もせず、軍艦マーチもかけないことにしました。以来、「戦争反対」が、私の生涯のテーマになりました。
 2年生の時、私は男子が3分の2の高校で、初の女性生徒会長に選出されました。その時、学校側と交渉したのが、制服の導入を阻止することでした。理由は、「個」が軽視され、「自由」で無くなるからでした。結局、標準服が取り入れられましたけど、つい4、5年前まで、生徒が自由な服装で通学しているのを見て、ひそかに溜飲を下げていました。でも、中高一貫校になるとともにバッチリ制服ができて、さすがに 年前の卒業生には、影響力がありませんでした。

日本国憲法とわたし


◆小学校3年生で習った文部省「あたらしい憲法のはなし」

  この「あたらしい憲法のはなし」は、日本国憲法が公布されてから か月後の昭和 年8月、文部省によって発行され、中学1年生が教科書として学んだものとのことですが、私自身は、小学校3年生の時に学びました。担任の先生の一存だったのか、学校としての決定だったのかは分かりません。
 しかし、「あたらしい憲法のはなし」が教科書として使われたのは、わずか2、3年で、昭和 (1950)年には、朝鮮戦争が起こり、日米安保条約に基づいて米軍基地が使われ、「警察予備隊」が発足するとともに、教室から姿を消し、私が中学1年生になった1954年には、使われていませんでしたから、これを小学校で学んだのは幸いでした。
 私は、戦後の貧しい混乱した時代に育ちましたが、いまでは幻といわれる戦後民主主義教育を受けた世代で、つくづく幸せだったと思います。いまよりもずっと自由で、子どもながら親の世代とは違った新しい社会を、世界の人々とともに作っていくのだ、と意気に感じて人生を歩んできました。
 日本国憲法の3つの基本理念をしっかり身につけました。 

◆1つ目は、国民主権主義


  この憲法の制定に、1946年4月10日にはじめて参政権を行使して、衆議院議員に当選した 名の女性議員が参加していたのはよかったと思います。『はじめての女性代議士たち:新しき明日の来るを信ず』の著者・岩尾光代さんからいただいた貴重な写真があります。焼け野が原の国会議事堂をバックに、タスキ掛けの加藤シズエの演説風景です。彼女は13万票をとり、東京2区でトップ当選を果たしました。他にも49名中8名がトップ当選でした。
 日本国憲法は、占領軍による押しつけ憲法のように言われますが、6月25日に女性も参加した衆議院本会議に上程され、賛成421票、反対8票という圧倒的多数で可決され、同日貴族院に送られて、8月26日に貴族院本会議に上程され、10 月6日、賛成多数で可決されました。「文民条項」などの改正があったので、更に、衆議院に回付され、10 月7日に衆議院本会議で圧倒的多数をもって可決されました。帝国憲法改正案としての扱いでしたので、枢密院に再諮詢され、 10月29日に出席者の全会一致で可決され、天皇の裁可を経て、11月3日に公布されました。

◆2つ目は、基本的人権尊重主義

 第 条のGHQ草案の起草に関わったベアテ・シロタ・ゴードンは、戦前、少女時代を乃木坂で暮らし、日本の家制度の下で女性がしいたげられている姿をいやというほど見ていたので、家族生活における「個人の尊厳と両性の本質的平等」を書き込んだのです。赤松良子さんが提案されて、『ベアテの贈りもの』という映画がつくられました。今回の赤松さんのご逝去を悼んで、ベアテさんのお嬢様ニコル・ゴードンさんから弔辞が寄せられました。
  条が自民党の改憲案で書き変えられようとしています。何として
も阻止しなければなりません。

◆3つ目は、国際永久平和主義

私は、皆さんの女性「九条の会」の活動に心からの敬意をもっております。
 私は、戦争は数字で語ってはならないと思っています。ワシントンのベトナム戦没兵士の墓も、プリンストン大学本部の入口正面にも、沖縄摩文仁の丘の平和の礎にも、戦没者一人ひとりのお名前があります。寒い冬の日に、ワシントンのベトナム戦没兵士の墓で、一つの家族が花束をおいて、一人の兵士の名前をさもいとおしそうになぞっているのにあったことがあります。
 そうなんです。関千枝子さんが『広島第二県女二年西組:原爆で死んだ級友たち』(筑摩書房、1985年)に書いたように、一人ひとりの少女が生き、そして、原爆死したことが重大なことなのです。何としても、第9条を死守しましょう。


◆赤松良子さんの2つのエピソード

 憲法の話の最後に、赤松良子さんのエピソードを2つ。
 1つ目は、2000年に文京学院大学で、ベアテさんと赤松さんが対談をされたときの発言です。このとき、私はコーディネイターをさせていただきました。赤松さんは、「子どもの頃、長兄に、『この家のかまどの灰までも、俺の物だ』と言われて、悔しかった」と、おっしゃいました。「だから、日本国憲法に男女平等を書いてくれてありがとう」と、ベアテさんに感謝されました。
 2つ目は、細川内閣の文部大臣をお引き受けになったときのエピソードです。ハワイにご滞在中の赤松さんのところに細川護熙さんから入閣依頼のお電話がありました。赤松さんは、「あなたの内閣は、日本国憲法を護りますか?」とお尋ねになり、細川さんから「護ります」という言質をとって、「お受けします」とおっしゃったそうです。
 赤松さんは、日本国憲法の本当の意味の信奉者でした。「命ある限り戦争はさせない」「日本国憲法があって、いまの私が在る」赤松良子語録です。

 女性の権利を国際基準に

 ◆「日本の女性差別撤廃条約の母」市川房枝と赤松良子  

 市川房枝は、国際派で、早くから国際条約で、性差別を禁止することの意義を確信していらっしゃいました。
 1956年に日本の国連加盟が実現すると、翌年には、国連経済社会理事会の協議資格をもつ7つのNGОをまとめて、「国連NGО国内婦人委員会」を設立し、そこから国連総会へNGОの女性が参加できる道を拓きました。これは、今日まで続いています。
 とりわけ、女性差別撤廃条約草案の審議が大詰めを迎える1979年の政府代表団に市川が中村道子成城短期大学教授を推薦した功績が特筆されます。中村道子は、幼少時をニューヨークで過ごしたため卓越した英語力をもち、まじめで温厚な人柄とも相まって、不規則発言の飛び交う第三委員会作業部会で、大活躍をされました。その間の事情を、国連公使の赤松良子が1979年12月15日の書状で市川に報告しています。
 時系列でいうと、女性差別撤廃条約の草案は、11月29日に総会第三委員会作業部会を通過し、12月7日に総会第三委員会で採択、12月8日に第34回国連総会で採択されました。 赤松が市川に宛てた手紙を書いた12月15日は、「毎夜の深夜業からやっと解放された」総会本会議を待つ間のことでした。忙しいさ中に書かれた書状には、いかに赤松が、条約採択を待つ市川への報告を大切に思っていたかが伝わり、二人の関係性にジンと来るものがあります。
 市川は、一刻も早く翻訳することを中村道子に依頼し、中村は、帰国後トランクもそのまま、徹夜で翻訳を続けて、いち早くそれを市川に届けています。外務省仮訳の出る3〜4ヶ月以前のことでした。
 市川が、日本の女性差別撤廃条約の署名のキーパーソンだったことはよく知られています。国連では、1980年の「国連女性の10年 中間年世界女性会議」の席上で、前年暮れに採択された女性差別撤廃条約の署名式をして、早期発効を目ざすことにしました。しかし、日本は、コペンハーゲン世界女性会議の開会日にも未だ、署名が決まっていませんでした。
 日本初の女性大使としてコペンハーゲンに駐在していた高橋展子が、「1980年5月に、私はデンマークに大使として赴任し、7月コペンハーゲンでの世界会議に首席代表を勤めることになりましたが、の会議の直前まで、日本がこの条約に署名できるかどうか分からない状態でした。婦人団体、ジャーナリズム、超党派の婦人議員などのバックアップにより、やっと署名することに閣議で正式に決まったのが、何と7月15日(開会式の翌日)でした」と述べているほど、その署名は危ういものでした。署名には市川たちの必死のロビイングがありました。その秋の終わり11月27日付けで、「夏の婦人会議では、おかげさまで、差別撤廃条約に署名することもできました」という高橋から市川への感謝の書簡が残されています。
 私は、1986年以降、毎年CEDAW(女性差別撤廃委員会)の傍聴にでかけ、CEDAWをサポートしてきたIWRAW(国際女性の権利監視協会)のセミナーに参加していました。ニューヨークで開催されたセミナーで、市川さんの棺に女性差別撤廃条約のコピーが納められたことを話すと、会場から「Ms.Ichikawaは、女性差別撤廃条約とともに眠っている唯一の人だ」と言って感動の拍手がまき起こりました。市川房枝がいなければ、アメリカに追従する日本は、女性差別撤廃条約の締約国になっていなかったかも知れません。市川は、日本における女性差別撤廃条約の母なのです。
 赤松良子は、1979年、国連公使として、女性差別撤廃条約の制定にかかわり、12月18日、第34回国連総会で、日本政府を代表して、女性差別撤廃条約の採択に賛成のボタンを押したのでした。でも、赤松は、「この条約が…国連総会で採択された時、賛成投票をした政府代表や随員の女性たちは、文字通り抱き合って喜んだのでした。しかし、私はその興奮のさ中にあって、あぁ、でも日本は批准できるのだろうか?と思わずにはいられませんでした。この条約の内容を知っていた私は、これが日本で問題になった時の人々の反応が、とても心配だったからです」と語っていました。しかし、赤松の心配をよそに、日本は、1980年7月17日に、赤松の見守る中、第2回世界女性会議に設えられた署名式で、高橋により、無事署名を果たしました。
 しかし、女性差別撤廃条約が効力を発生するのには、条約に違反する状態をなくして、国会の承認を経て、批准することが必要です。
 国連から帰った赤松は、労働省の婦人少年局長として、もっとも困難といわれた「男女雇用機会均等法」の制定に尽力したのでした。鬼の根回しをして、1985年5月17日に、「男女雇用機会均等法」が国会を通り、1985年6月25日に女性差別撤廃条約の承認案件が国会を通り、翌6月 日の批准書寄託に漕ぎつけた一連のドラマの主役は赤松良子でした。2000年12月、「女たちの10年戦争」というタイトルで、これまた「初の女性主役」のNHKプロジェクトXになりました。
 赤松は、1987年から1994年まで2期8年間、女性差別撤廃委員会委員を務め、更に、1989年から 年間、国連NGО・国際女性の地位協会の会長をつとめ、その後は生涯、名誉会長として、女性差別撤廃条約の研究・普及に尽力されました。名実ともに「日本における女性差別撤廃条約の母」なのです。


  
 ◆「日本は新しい時代を迎えた」と高橋展子…しかし
 

 日本政府を代表して条約に署名を果たした高橋展子は、女性差別撤廃条約が日本に対して効力を発生した1985年7月25日をもって、「日本は新しい時代を迎えた」と言いました。 しかし、高橋の予想は残念ながら外れました。それから39年にもなるのに、日本のジェンダー平等度は下がるばかり。直近、2023年度の世界経済フォーラムによるジェンダーギャップ指数は、世界164カ国中125位に低迷しています。
 「女子差別撤廃条約という用語」の周知度は、34%に過ぎません。
 業を煮やした私たちは、2021年7月25日に、女性差別撤廃条約関係3団体(国際女性の地位協会、日本女性差別撤廃条約NGОネットワーク、女性差別撤廃条約実現アクション)は、「7・25 女性の権利デー」宣言をし、毎年、7月25日に、さまざまな活動に取り組んでいます。今年は、女性差別撤廃条約採択 周年です。ジュネーブで日本報告審議もあります。一層力をいれて、各地で、スタンディングやデモ行進、シンポジウムや展示などをする予定です。ぜひ皆さんもご参加ください。

 

 女性差別撤廃条約の特徴 

 女性差別撤廃条約の中心理念は、「固定化された男女役割分担観念の変革」です。「男は仕事、女は家庭」から「男は仕事、女は家庭と仕事」を経て、この条約によって、「男も女も家庭と仕事」いわゆる「ジェンダー平等」が中心理念になりました。
条約は、法律上の差別ばかりでなく、慣習・慣行における差別も撤廃し、公の当局ばかりでなく、個人・団体・企業による差別も撤廃することを求めています。さらに、男女の事実上の平等を促進するために暫定的特別措置をとることを認めており、差別されている側を優先処遇することを認めています。
 日本に対して女性差別撤廃委員会(CEDAW)は、政治分野などに法的なクオータ制の導入を勧めています。
 条約は、締約国の報告審議や選択議定書による検討事例の蓄積により、「生ける法」として日々進化を続けています。現在、189か国の締約国を擁し、名実ともに「世界女性の憲法」の役割を果たしています。国連加盟国で、条約を批准していないのは、イラン、スーダン、ソマリア、パラオ、トンガと大国アメリカだけです。
 CEDAWは、締約国の義務を次の3つに分類しています。
 第1は、尊重義務です。国は、女性に対する差別となる法律、規則、行政手続、慣習、慣行を維持してはならず、直接差別はもちろん間接差別も撤廃しなければならないとしています。
 第2は、保護義務です。国は、個人・団体・企業による差別から女性を護り、ステレオタイプな慣習・慣行を撤廃する措置をとらなければならないと言っています。国が措置をとらないと「相当な義務違反」となります
 第2回は、1980年のコペンハーゲン会議です。女性差別撤廃条約の署名式が行われた記念すべき会議でした。
 第3回は、国連女性の 年を締めくくる1985年のナイロビ会議です。ブトロス・ブトロス・ガーリ事務総長は、「国連女性の 年は、国連そのものを、各国政府が政策や協議事項を設定する機構から、政策や方針が草の根レベルからNGОによって生みだされる機構へと変化させることに貢献した」と述べました。はじめて参加した私は、「NGОが世界を変える」と確信しました。
 そして、第4回が、1995年の北京会議です。日本から5000人もの女性たちが出かけ、その熱気を持ち帰りました。採択された『北京行動綱領』は、最高の成果とされ、ここに女性差別撤廃条約に個人通報制度を導入することが書き込まれ、選択議定書の策定に繋がりました。
 しかし、その後は、一度も世界女性会議は開催されていません。「北京+α」が国連総会特別会期だったり、女性の地位委員会の特別会期として開催されてきただけなのです。とても残念なことです。
 女性差別撤廃条約の実施措置には、「国家報告制度」が定められています。締約国が、国連に実施状況報告を提出し、CEDAWが、締約国代表を招いて「建設的対話」を通じて審議し、総括所見を出して、更なる実施を促すというシステムです。選択議定書を批准していない日本にとっては、これが唯一の実効性をはかる措置です。  

◆国連に声を届ける
 
私たちNGОは、国際女性の地位協会から、第1回日本報告審議(1988年、ニューヨーク)に3人、第2回日本報告審議(1994年、ニューヨーク)に13人が参加。そして、2002年にJNNC(日本女性差別撤廃条約NGО)を結成して以降は、第3回日本報告審議(ニューヨーク)に84人、第4回日本報告審議(2009年、ニューヨーク)に80人、第5回日本報告審議(2016年、ジュネーブ)に 人が身銭を切って出かけ、自分たちの声をCEDAWメンバーに届けるとともに、現地でCEDAWと日本政府の「建設的対話」を固唾を呑んで傍聴しました。そして、総括所見の実施状況を評価

 
◆法律はできたけれど
 
 
日本では、女性差別撤廃条約の批准を前に、国籍法が改正され、男女雇用機会均等法が制定され、家庭科の男女共修が決まりました。その後も、世界女性会議やCEDAWによる日本報告審議を経て、育児・介護休業法ができ、男女共同参画社会基本法が成立し、DV防止法ができました。日本も、そこそこジェンダー平等に向けて頑張ってきたかに見えますが、何故、ジェンダーギャップ指数が125位なのでしょうか?それは、形式は整えても、本質的な肝心なところが何も変わっていないからです。
 包括的反差別法はないし、国内人権機構はないし、選択議定書は批准していないし、いつも妥協の産物で、選択的夫婦別姓制度もできなければ、同一価値労働同一賃金も受け入れられていないのです。政治分野の男女共同参画推進法も、理念法に過ぎません。政治家のジェンダー差別発言は、後を絶ちません。

◆私たちは何をすべきか

 私は、とにかく、「行動の見える化」が必要だと思います。今日も、こうして皆さんにお話をしに伺っています。院内集会をして、議員の理解を得る努力をしています。昨年 月、今年に入って2月、次は6月にいたします。3・8国際女性デーには、選択議定書批准を求める横断幕をもって、渋谷をパレードしました。
7・ 女性の権利デーには、銀座パレードをしようと言っています。
 ОPーCEDAWアクション のメンバーは、今日も、津々浦々の地方議会議員の皆さんを訪ねて、選択議定書早期批准のロビイングに出かけています。そうしたNGОの努力が道を開くことになると信じています。
 赤松良子さんの口癖は、「政局が厳しい時こそ、懸案が解決するチャンス」「しっかり準備していなさい。運が良けりゃうまくいくから」でした。いまそのチャンスが到来しているのではないでしょうか?
  月には、日本報告審議の傍聴にジュネーブに出かけて、もうひと頑張りしたいと思います。

 

 

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