女性「9条の会」ニュース39 号 2017 年1月号

 

1面  

私たちは黙ってはいない!                           小山内 美恵子(作家)
 

はじめ、九人の先達が「九条の会」を設立したと、マスコミを使って発表された時は心の底から震える思いで感動した。
 だが、先鋒鋭い小田実さんが逝去され、続いて加藤周一先生、世話役を買って出られていた井上ひさしさんが亡くなられた時はショックを受けて、九人の中のお一人である澤地久枝さんに、メンバーの補完をしないのかと問うた時の澤地さんの答は次のとおりであった。
 「しませんヨ、私たち九人は時あるごとに、その時、その場で『九条の会』の主旨を訴え、その處に種を蒔いて来たわ、だから、今日本のあちこちで『九条の会』が芽を出し育っているじゃありませんか」
 その後で、三木睦子さんや鶴見俊輔さんもひっそりと鬼籍に移られているが、澤地さんの言葉通り、女性「九条の会」が生まれ、「映画人九条の会」も声をあげ、自分の町の名をのせた「九条の会」が全国的にどのくらい生まれているだろうか。
 現在私が暮らしている町内でも、それを冠に「九条の会」がいくつも出来ていて、もちろん私もその会の会員でもある。
 これらはご近所さんの会だから当然のように小人数であり、且つ男性は定年になった方々がいて、茶飲み友達のようによく集まる。話題は必ずしも「九条」的ではないが、会員がいま燃えているのは南スーダンに於ける駆けつけ警護の問題である。「冗談じゃない。二度と武器は持たせないという三原則が憲法九条にしっかりと書いてあるではないか」と言えば、「冗談じゃないのは閣議決定というものよ」とコーヒーを入れていた女性仲間が怒り出す。「私たちに断りも入れず一〇人やそこらの閣僚が決めて、それが戦争になって、日本人全部の運命を変えるなんてこと、私は許せない、よけいなことをしないでと言いたいわ」
 そう、いざ戦争になったら、兵器はこの前の戦争よりはるかに発達している上に、いつ核を使えばいい…など考えている国もある。本当に核の恐ろしさを知っているのは私たち日本人だということをもう一度考えて、平和に暮らしたい国の人々に伝えるべきなのだ。
 女性「九条の会」のメンバーは、まさにその役割を担っているのだと思う。
 美人の防衛大臣が現地に行って、一泊二日のお仕事で、首都は比較的静かだなんて言っているが、アフリカの全土といって良いほどに活動しているNGOの意見をなぜ取り入れないのか。一旦、事が起これば取り返しがつかず、責任の取りようがない。だが、私たち女性「九条の会」は責任を取らせるだろう。だが、恐ろしいのは、責任云々の前に何があるのか、鮮血の海は絶対に避けなければならない。それには全国に声を上げている「九条の会」が出番なのだ。戦争は絶対にあってはならぬと。 
(女性「九条の会」呼びかけ人)

 


2面〜6面   女性「九条の会」憲法学習会        2016年11月9日 於 明治大学リバティ教室

  平和のために歌い継がれたもの  講師 志田 陽子さん

 女性「九条の会」は、11月26日(土)、武蔵野美術大学の憲法学の教授をされておられる志田陽子先生をお迎えして、明治大学において憲法学習会を開催しました。
まず、明治大学の中川先生が、「沖縄県辺野古の新基地建設を巡る「辺野古違法確認訴訟」で、福岡高裁那覇支部が国側の請求を認め、県側敗訴の判決を言い渡したが、これを批判する新聞は少ない。私たちは憲法をしっかり学んでこれらを見逃さないようにしなければならない。歴史と民主主義を常に頭に置きながらが、私たちは憲法の問題を考えて行かなければならない」と挨拶。
 志田先生の講演の第1部は理論編、第二部は「歌でつなぐ憲法の話」と題して、映像を交えながら、心に響く歌声を披露してくださいました。平和を願う歌声は私たちの心に直接的に響き、「私にできることを何かしよう」という気持ちを強く抱かせてくださいましたが、紙面の都合で掲載は割愛させていただきました。

 


第1部 理論編 《憲法改正と女性たちのくらし》
 憲法の歴史性

■立憲主義の誕生と現在


 憲法を最初につくった国イギリスでは、戦争をして領土を拡大する国王のやり方に国民は疲弊していた。そこで人民の声が直接届く立場にいる領主たちが、もう国王の言うとおりにはできないとして、国王より上に「法」を置き、守って貰おうと考えた。この時に「立憲主義」という言葉が確立したのだった。そこしか知らない人は「立憲主義は中世の国王と国民との約束」としか見ない。2年ほど前、安倍総理はそう答弁していた。 しかし、時代が変わり、主権者は国王から国民となった。現在の「立憲主義」は、長い歴史と、経験の中から編み出された、国家が民主主義を壊して独裁に走しらないためのルールなのである。


■歴史が生み出した憲法の基盤

 
 完璧であると思われていた建物が地震で潰れた時は、どこを強化するかを考える。その結果、地下の構造から見直して設計の基本をつくりあげる。同じように憲法の基盤も長い歴史の積み重ねの中から「二度と繰り返してはならないこと」を防ぐための防波堤として考案された。憲法はそのような《歴史》が見えるものであることが重要なのだ。
 女性にとってはとくに、14条、24条、44条が重要だ。
14条(法の下の男女平等。性別や家柄による差別の禁止)24条(家制度に基づく強制婚姻の禁止。家庭内での男女平等)44条(国会議員の資格について14条を確認、性別による差別を禁止)
 これは女性参政権がなかった時代に、女性は議員にはなれず、生活の実感やニーズを政策に届けることができなかったことへの反省から生まれた条文で、「二度と繰り返してはならない歴史」が憲法に刻まれている。 そういう歴史が見える状態を「可視化」と言う。地層の断面が見えるように、イギリスでは500年前にこういうことが問題になっていた、1800年ごろのフランスはこれが問題だった、ということが見える憲法になっている方が私たちにとって自分の足場がしっかりする。これが見えにくくなると、足腰の弱い、理屈の解釈が優先されることになる。 憲法の歴史的に古い部分で純化された重要な部分はパソコンでいう基盤部分に当たる。憲法改正をするときにも、本来は「改正の限界」として、基盤の部分はいじらないという考え方が、憲法学では大切にされてきたのだが、2012年に公表された「自民党憲法改正案」では、無頓着に基盤を変える方向が見られる。

 

《私たちは明治憲法から何を学んだか》

■私たちの暮らしへの影響


 基盤が変わると翌日から物価が上がるということはないのだが、深刻な影響が、見えにくい形でじわじわやってくる。なぜなら、ものの言いにくい社会がくるからだ。
 例えば憲法25条2項、これは大きな変更はないように見える。しかし、ものが言えない社会では、国家が福祉の型を決めていくようなときに強行採決的なことがくり返されることになる。
 実は昨日、国会で社会保障についての重要な議論がされたが、野党が懸命に質問をしているにもかかわらず、かみ合わないまま一方的に決まってしまった。去年9月の安保法制が決まったときもそうだったが、そういう状況が起きやすくなる。

■「三権分立」は   チェック&アラーム機能


 現憲法の基盤の一つに、「三権分立」という考え方があり、国会と、内閣を頂点にする行政府と、裁判所がある。国の働きを3つに分けておいてどこかが暴走することを食い止めている。「おかしいぞ」と言えるアラーム機能をそれぞれが持っているのだ。
 「議会は議論をしっかりやってほしい。そのためにたたき台を出すのだから」と言える内閣。逆もある。内閣が出す案は「ここが危険ではないか」と国会議員が指摘してアラームを鳴らす。するとその部分を修正する。憲法16条に保障されている請願権を使って国民がアラームを鳴らし、それを受けた議員が議会でアラームを鳴らす。それを受けて「少し考えて見よう」と内閣が言う。これが民主主義の本来の形なのだ。

■アラームを無効にする危険さ


 「ホテルニュージャパン火災事件」をご存じだろうか。当時の社長が火災報知器が度々鳴ると客の印象が悪
いのではないかと考え、作動を止めるように従業員に命じていたことが大惨事となった原因だった。火災報知器が鳴らなかったため、火事になったことに気付かずにいた人々が、逃げ遅れて大勢亡くなったのだった。アラームを止めてしまうと、一見運営がスムーズにいって便利なようだが、万が一のことが起きたときに大惨事を防ぐことができない。これを国に当てはめてみると、現憲法はさまざまなところにアラーム機能をちりばめているのだが、憲法改正によって、日本という国がホテルニュージャパンの方向に向かわないだろうかという心配がある。
 チェック&アラーム機能は、現在でもかなり形骸化している。私は、一連の国会での議決の様子、安保法案の議決の様子を見て、これは危ないと感じたので、『安保法案違憲訴訟』の原告にならせていただいている。
 歴史の教訓から学んだ国は、憲法の中にアラーム機能をちりばめている。権力分散のしくみと人権保障が立憲主義の最も大事な2本の柱であると考えられている。

■内閣による「解散権」は民主主義の形骸化につながる


 2014年の暮れに安倍さんが衆議院を突然解散した。「消費税増税を遅らせることにしたので国民の信を問うために解散をします」ということだった。そして総選挙が終わった後で安保法制改正の一連の議論を進めてさっと決めてしまった。多くの人がこれは争点隠しであると批判をした。マニフェストをよく見ると、一番下に小さな字で「安全保障法制を見直します」と書いてあるが、国民にとってあまりにもわかりにくいものだった。
 衆議院解散総選挙は度々行われる。小泉純一郎さんが郵政解散という劇的な解散をした。そのように、内閣総理大臣が衆議院に向かって「解散」と言えば、解散になってしまっている。現実にそういうことが多いので、私たちは衆議院解散は内閣総理大臣の権限なのだと思うのではないだろうか。しかし、内閣総理大臣が衆議院を解散する権限は今の憲法には書かれていない。憲法の元の主旨は、内閣が議会を無視し信頼関係を保てない状況を作り出したときには、議会が内閣をクビにできるといといという制度なのだ。
 けれども、実際にはその逆が行われている。議会とのバランスをとるために内閣が解散を要求してもいいのではないかという解釈が行われ、その解釈によって内閣が衆議院を解散することになっている。しかし、明文の根拠はないので、よほどの必要がある場合に限定されなければいけないのだ。「今なら有利だから、一気に解散総選挙に持ち込んで票固めをしたい」という理由での解散はしてはいけない。
 そういう議論はされているのだが、改正草案54条の1項には限定なしに内閣が決定すると書いてあるので、内閣総理大臣が解散をしたいと思ったなら解散をしてもいいということになってしまう。これは民主主義を弱体化させる方向だ。

■「定足数」の意味が変えられる


 「定足数」というのは、議会を開くことができる出席者のことで、議事を開くためには衆参それぞれに3分の1以上の出席が必要である。これは審議をするのに必要な数だが、改正案では議事ではなくて議決となっているので、審議の途中は3分の1以上を求めない。決定するときだけ3分の1以上いればいいということになる。そのほうがスムーズに決められて便利だということで提案されているのだが、民主主義というのは結論に至るまでの議論や反論を受け付けて、その両側の議論の様子を、報道を通じて国民が見る。そして国民にとっても考える材料になるというのが本来の姿なのである。
 その大事なことを便利にした結果、民主主義を形骸化させてしまう。国民が民主主義の当事者として議会を見守っているはずなのに、考えるべき材料がよくわからないまま決まってしまい、結論だけが知らされるという方向へ行きやすくなる。これは「知る権利」に支えられた本来の議会制民主主義からいくと、国民の位置付けが国政から遠ざかることになる。今はまだ「おかしいんじゃない?」と言えるけれど、改正が行われたら、「憲法に書かれているからそれで良い」ということになる可能性がある。
この部分は、巡り巡って「社会保障をどうする」あるいは「食品の安全の問題をどうする」という問題に、じわじわと影響してくるわけだから、自分の暮らしにつながることとして、関心を持っておいて欲しい。

■くり返される「内閣の判断にお任せください」


 たとえば2015年の安保法制国会では、参議院でさまざまな質問が出てきたときに、「それは内閣が総合的に判断します(内閣を信頼してください)」という答弁が何度もくり返された。内閣が判断すればそれで良いのだという内閣丸投げ状態は民主主義とも「三権分立」とも異なる。さまざまな質問に対して「総合的に判断する(から黙っていてくれ)」という論法によって数だけで決めてしまう決定方法は重大な憲法問題なのだけれども、現在の憲法改正草案に従うと、憲法がこの流れを追認してしまうことになる。
 たとえば「武力行使の新三要件」は、今すでに法制化されてしまっているけれども、2014年の閣議決定のときの国民への説明では、「武力行使は必要最小限度に留める」と言っていたのだが、2015年に議決された「事態対処法」を読むと、この言葉が消えて「武力攻撃は、合理的と判断される限度において・・・」となっている。これは「政府が何らかの理由を言えれば武力行使ができる」という広汎な許可の言葉になるが、国民には「必要最小限度」と「合理的判断」がどれほどかけ離れているかが見えにくい。見えにくさを利用して意味を正反対のものに変えている。国民の側が敏感になって「1年前の説明と違っているではないか」と言えなければならないのである。
 総じて国民にとって看過できない決定的な事柄が、国会を通さずに閣議決定で決められる流れが、強化される可能性がある。
 地方自治体はアラーム機能を本当は担っているはずなのだ。住民の声を直接吸収できるのは地方自治の長、知事だ。知事が住民の声を集約して、いざとなれば国政に対してものを言うが、それは、地方自治体がアラーム機能を持っていて、それを期待されているからだ。しかし、アラームを鳴らした途端に「黙りなさい」と言われてしまうのは、憲法のもともとの考え方とは逆行している。辺野古の判決は憲法に逆行した判決になるということになる。

■緊急事態条項の問題点


緊急事態条項の1項には「内閣総理大臣は、我が国に対する外部からの武力攻撃、内乱等による社会秩序の混乱、地震等による大規模な自然災害その他の法律で定める緊急事態 において、特に必要があると認めるときは、法律の定めるところにより、閣議にかけて、緊急事態の宣言を発することができる。」と書いてある。これは98条に付け加えられる予定として2012年の案に入っている。「他国から武力攻撃を受けた」これはまぁわかる。万が一に備えて緊急事態に備える条文を持っている国は外国にもある。ただ、日本のように頻繁に地震がおきる国で、地震のような事態を緊急事態にしてしまったら、日本は何ヶ月かに一回、緊急事態を宣言できることになる。そしてさらに「その他の法律に定める緊急事態」というのは、憲法にしっかり制約がないまま、法律でこれも緊急事態ということにしてしまえば、緊急事態と言える事柄が無限に広がってしまう。
 この緊急事態の宣言は内閣が閣議決定で決める。議会へは「事前または事後に」承認するとなっているが、こう書いてあればたいてい事後になってしまい、実際には内閣だけで緊急事態宣言ができてしまうという
ことになる。
 緊急事態宣言が出たときには、一番身近な地方自治に対しては、一方的にトップダウンで地方自治体の長を従わせることができることになる。辺野古の判決は、まるでこれを先取りしてしまったような思考法になっている。まるで裁判官がフライイングで緊急事態でもない現在においてこの緊急事態を先取りするような判決を出してしまったので、今日、冒頭で中川先生が「辺野古判決は論理的におかしな判決」とおっしゃったのだ。
 私たち国民は、国その他公の指示に従わなければならないとなっている。人権についてはある程度は守られると思うが、保障ではなく「尊重」なので、「尊重はしますが緊急事態なので制約はします」ということになってしまう。
 この条項では、緊急事態条項は、私たち国民に直結していて、権利の制約が起きると同時に、いつ権利の停止が起きるかわからない状態になってしまう。そしてそれをやってしまった後に戻れなくなる危険があるので、ドイツなど緊急事態条項を持つ国は、元に戻るためのしくみを慎重に仕組んでいる。時限立法といって期限を決めている。日本でも100日という一応の区切りはあるが、更新ができる。そこがどうなっていくかわからないので危険であると海外からも指摘されている。
秩序を害するのでデモ活動禁止とい文ではできてしまう可能性があるので、これは問題視されるべきところうことになると、「もう黙ってはいられない」と思う人たちがアラームを鳴らしにくくなる。

《人権保障 1  自由権》

■「公共の福祉」から「公の秩序」へ


 戦前の歴史を見ると、女性が憲法について本日のような市民的公開性のある場を設けて話し合うことは絶対にできなかった。女性が政治目的の集会を行うことを禁止する法律が作られたためである。それを考えると、女性参政権を実現すると同時に、すべての人にとっての集会結社の自由が保障された憲法21条が、女性にとっては大変な前進になった。改正案のこの条文が入ることで、いきなり女性の集会が禁止されることはまずないけれども、かつて「女性は家で内助の功に徹するのが公の秩序に叶うことだ」という考えに縛られてきた女性たちが声を上げることの重要性を考えた時、この条文の改正と女性の権利との関係についても、看過できないものがある。 
 安全保障との関わりでいうと、今の憲法では「徴兵制」はできないと考えられている。「意に反する苦役」に当たるからだ。しかし改正案の条文ではできてしまう可能性があるので、これは問題視されるべきところだ。今の憲法は国家が国民を一方的に動員することは止めようという決意を持っている。これは第2次世界大戦中の国と国民の関係が、それによって悲惨な犠牲を生み出したからだが、その構造がかなり揺らいでしまうということが言えると思う。
 奴隷状態という言葉は、きつく聞こえてしまうけれども、憲法の歴史と奴隷制を乗り越える課題は切っても切れない関係なのである。人間を奴隷状態に置かない、そのためにはどんな原理が必要なのかということから、さまざまな人権が生まれてきたので、歴史的に「奴隷の禁止」は人権保障の基盤の部分なのである。
 私たちは今の社会に照らしたときの奴隷状態について考えることができる。例えば「ブラック企業」の中で過労死自殺をする人は奴隷状態だったのではないか、これは深刻に国が乗りだして考えなければいけないことだ。

《人権保障   2  社会権と家族、環境》 

■家族と支援


 改正第24条には「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない」と書かれている。この「自然かつ基礎的な単位として」というのは、国際人権規約の中に出てくる言葉である。日本では「家制度」が強力だった時代が70年前まであったので、これが最初に出てくると、かなりの人が「家制度」復活かという危惧感を持つ。ここでは国際社会の中で、なぜこの言葉が出てきたのかを確認する必要がある。
 ヨーロッパは国境を接していて、戦争や民族紛争によって家族や近しい人々が分断されるという悲劇が幾度もあった。それで家族は国家の都合で引きはなされてはいけないということを言おうとして、「家族は自然かつ基礎的な単位」だと言っている。日本の憲法でこの言葉が取り入れられたときに、それをわかって取り入れているのかということを私たちは慎重に見なければいけないと思う。
 次の一文「互いに助け合わなければいけない」は、道徳としてはその通りだが、これを憲法で義務化してしまうことによって、家庭内でDVを受けていて、家から脱出しなければ私の人生はないと思っている女がいたときに「憲法に書いてあるからあなたは家で頑張りなさい」と言われたらどうなるのか。ひとり一人が自分の人生を生きるために、気の合う人といっしょにやっていこうと思ったときに助け合いが起こる。その助け合っている家族を応援するというのならいいのだが、「助け合わなければならない」と命令してしまうと、極限状態におかれた女性を追い詰めることになる。この言葉を憲法に入れるのは非常に不用意だ。
また現憲法にある「両性の合意のみ」の「のみ」が削られるが、あった方がいい。なぜなら「強制結婚」があったという歴史がここで見えるからだ。そこを消してしまうと歴史への自覚が弱まることになると思う。

■「生存権」が危うい


 25条1項「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」という生存権の条文は改正の対象にはなっていない。しかし、24条で家族は助け合わなければならないと書いてあるために、事情により生活保護や、介護の支援を受けたいと思う人が、「まずご家族で解決してください、その上で、こちらへ来てください」と言われて、受けにくくなる可能性がある。家族でなんとかやれるのであれば、もう家族で何とかしている。できない事情があるから国の支援を求めたいのだ。国の支援を求めたい人を家族に投げ返す一番悲しい流れとしては、暴力などの辛い事情を我慢している女性が、国の支援を受けにくくなるのではないかと危惧されるところだ。
 また、福祉の対象が国民と限定されているが、もし日本が外国人は権利保障の対象外と、壁を作るような条文を憲法に入れてしまうと、海外での日本人の権利保障を求める資格を、自ら弱めることになる。

■「環境権」は裁判で使えるか?


 現憲法にはない環境権を憲法に入れようという論議を聞くと、一見良いことに思えるが、これは裁判で使える権利なのかどうかが問題だ。裁判で使えない権利であるなら、現在の13条「幸福追求権」の中の人格権に基いて、裁判で弁護士たちが努力して積み上げてきた理論があり、今の方がいい。改正案の環境権は国の努力義務になっている。「努力した結果ここまでしかできなかった」と言われたらそれで終わり(立法裁量)ということになる。今の条文のままでは裁判で使えない。「国民は権利を有する」としないかぎり環境権は使える権利にはならない。
 もう一つ重要なことは「国民と協力して努めなければならない」、国が頑張る前提としては「国民との協力関係ができていること」となると、国に対して訴訟を起こしたい時とか、多くの国民が国の政策に反発をする意思表示をしたときに、「協力関係が出来上がってないので国は何もできません。」と言われたのでは、アラームを鳴らせなくなる可能性がある。
裁判で使える権利か、国民の側からアラームを鳴らせるようになっているかどうかということは気をつけておく必要がある。

 先日のニュースで、2012年に自民党が出した「憲法改正草案」を現在の憲法審査会にそのまま提案する考えはないと言っているが、基本的な方向がいっしょであれば、やは
やはり同じ問題がそのまま続いていると考えるべきだろう。
 私たちは、歴史から学んだことを総合しつつ、そういったことを注意しながら「憲法改正草案」の問題を考えていくことができればと思う。そして考え続ける。それが12条で言われる「不断の努力」ではないだろうか。           (文責 小沼)

《感想より》


・憲法の基盤部分は変えないということがよく理解できました。アラームは重要ですね。志田先生の歌はすばらしかった。
・人が人として生きてゆくことの大切さと難しさとを改めて強く感じました。私達が、自分の事だけでなく、日本中の、世界中の平和を求める一員として、はっきりと意識した生活をしていかなくては…と思わせていただきました。


第6回 九条の会全国交流討論会に参加して

 2016年9月25日に、明治大学で、[九条の会全国交流討論会」が開催されました。新しい世話人12人の紹介があり、新しい体制の元で、九条の会がさらに活発に動くことが期待できそうです。7つの分散会では、それぞれの地域での取り組みや、地域の情勢などが発表されました。

第3分散会

◆北海道札幌グリーン九条の会─会社社長や町長が世話人になり自民党、共産党、民主党で作っている。いろいろ考える人がいていい。会員は増やさない方針。  
◆あつぎ九条の会─つながりのあるところにチラシを置いたり努力して毎年100人づつ増えている。   ニュースは手配りで、すべての学校区に九条の会を作ろうと頑張っている。
◆釣り九条の会─国会に釣竿を持っていく。19日行動を続けたりシンポジュームに町長さんの参加を得たりと、村、町、大学と共同している。
◆活かせ九条松戸ネット─2005年に発足して現在26団体が結集し9月6日に1日共闘を実施した。
◆千住九条の会─大学教師が中心に年3回の憲法カフェ、イベントを開いている。
◆葛飾教職員九条の会─会員一人一人活動することが大事であると、総がかり行動などとも連係している。
★自民党や公明党に働きかけたり、
若い世代を迎えるために、ツイッターなど新しい感覚で広げていく努力も大事ではないか。            宮前記

第4分散会

◆国分寺9条の会─2008年以降国分寺まつりで「憲法9条」「原発事故を考える」パネル展示のテントを出店していたが、2014年から市民団体で作る実行委員会から政治的意味合いを持つと参加を拒否された。参加者募集に「政治的・宗教的意味合いのある出店」を除くと参加を拒否する条件を加えてきている。
◆葉山・逗子9条の会─今まで「交流センター」で会議や印刷等の活動を行ってきたが「安倍政治を許さない」の印刷物をみて館長が政治的な主張は政治的公平性から条例違反につながる。印刷はさせないと言ってきた。
◆世田谷代田9条の会─公営の掲示板に案内やポスターを掲示する際に承認印をもらうのだが、憲法記念日のつどいのポスター掲示の際に「憲法9条を無傷で子孫に手渡そう」という文言の修正をしないと承認印がもらえなくなった。当該の町づくりセンターと交渉している。                                                井伊記

第6分散会

◆ かいがや九条の会─2012年年に町別の「戦没者調査」を行い、どこで亡くなったか、その時何歳だったのかを聞き取り調査した。群馬では馬も軍馬として3900頭が徴用され、一頭も帰ってこなかったことなどを表にして発表。公民館から戦後70年の展示の呼びかけがあり、テント張りの展示場を特設、展示を行った。
◆戦争法の廃止をもとめ市民連合を結成した、それが参議院選での野党共闘につながったと、岡谷、岐阜、那須野が原、東松山の九条の会が報告。共闘の中心にいたのは、どの地域でも九条の会のメンバーだった。共闘の結果、勝利した地域はもとより、敗北した地域も共闘できたことを新しい道を切り開く土台として前向きに評価する意見が多かった。             小沼記

第7分散会

東大和九条の会─五日市憲法草案にも関わり、毎年「平和文集」を発行し、26年以上続いた。会が提案し、東大和市が「日本国憲法」の小冊子を作成し図書館や公民館に置くようになった。
◆障害者かんだ九条の会─(障害を持つ45歳の男性が車椅子で参加)
戦争が障害者を作り出す。いま世界の60億人中10億人が障害を持っている。戦時中、障害者は、非国民、ごくつぶし、と迫害を受けた。安倍改憲草案では、「家族は助け合い」といい、公を「公共の秩序」と言い換え、国が国民をコントロールする姿勢。あらゆる部分に人権を侵害する内容が盛り込まれている。野党は共闘して頑張ってほしい。                堀口記

 

 

 





 

 

 


 

 


 

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