女性「9条の会」ニュース38 号 2016 年11月号

 

1面  

今こそ勇気を  
                                          
                                        澤地 久枝(九条の会呼びかけ人)

 記録映画「イングリット・バーグマン」を見た。女性観客が九割くらいをしめていた。久しぶりに満員の映画館だった。
 プログラムの年譜によれば、彼女は一九八二年八月、六十七歳で亡くなっている。
 戦争が終わった翌年の秋、かつての中国東北から引き揚げてきたわたしは、女学校から連れてゆかれて、忘れがたい何本かの映画を見た。「にんじん」(仏)、「カサブランカ」(米)、日本映画では「長屋紳士録」など。
 わたしは、フランスもアメリカも実際には知らない戦争下の日本の子どもであった。「出てこいニミッツ、マッカーサー、出てくりゃ地獄にさかおとし」とうたった覚えがある。
 そのマッカーサー支配下の日本へ帰ってきて、貧しい生活が始まった。戦争は終わっても食糧事情のひどさは変わらない。ひもじい日々に直面した。「戦争は知らない」という人たちに、戦中戦後の、あの食べもののないきびしさ、飢えを知らせたいと思う。
 そういう日に見た「カサブランカ」のイングリット・バーグマンの美しさにわたしは圧倒された。わたしにはバーグマンに格別の思いを寄せる「経験」がある。
 一九八二年春、アメリカ取材中、アトランタからシアトルへ飛んだ。時差のある長い旅になった。隣席の女性が見ている雑誌のページで、わたしは衝撃的な一枚の写真を見た。クローズアップの顔全体にこまかい無数の皺があった。よく見て、それがバーグマンであると知った。あの写真は何を意味していたのかとずっと思っていた。彼女は最晩年に病の前途が容易ならないと知って、あえて取材に応じたのだと映画を見おわって思った。
 サブタイトルに「愛に生きた女性」とある。カメラマンのロバート・キャパとの愛と別れ。キャパがのぞめば、彼女は結婚するつもりだったという娘さんの談話を読んだことがある。結婚して娘もいる身であった。映画はさらりとキャパとのことにふれている。そして、よく知られる「スキャンダル」と迫害、その行方。
 イングリット・バーグマンが「絶世の美女」であることは別である。だが、彼女のすべてを肯定的に、しかも一本の筋を通す正直そのものの生き方、こだわりなく前を向くつよい意志は、示唆に富んでいると思う。
 生きていれば、想定外のさまざまなことに出会う。思わぬ病もあるし、政治がとめどもなく右傾化して、勇気を試されることにもなる。いまはまさにそういうときである。
 悲愴になることも、深刻ぶることもない。わたしたちは女がいかに強いか、明治・大正・昭和の三代を通じて、有名無名の、生活をささえ人生を守りぬいた女性たちを知っている。その子であり、孫である女たちが、顔をあげ、未来のため、未来のいのちのためにたたかう意志を示すこと。ひとりの勇気は、人の輪につながらずにはいない。それが力になる。
  

                                         


2面〜6面   女性「九条の会」2016年度憲法学習会 No1         2016年9月9日 於 エヂュカス東京

  改憲の何が問題か ─九条・家族・個人─  講師 青井 未帆

 

                                             


■はじめに


憲法改正草案が目指している状況が、もしかすると日本社会で生まれて普通に暮らしている人々にとってはそれほど違和感のない国家観なのかも知れないということを、私たちは改めて認識すべきなのではないかと考えている。実は改憲草案の何がおかしいのですか?という感覚はすごく強くて、その強いということを認めることなしには、先に行けないのではないだろうか。
私たちが認識しなければならないこととして、「平和憲法」などの言葉が届かない土壌との落差をもう一度見つめ直してみたい。

 

一、状況認識
 ■進む一元化

55年体制の時代は自民党の中も多元的だった。権力核がたくさんあったが、それを潰していく状況が急速に進んだのだと考えている。中でも内閣法制局は内閣がやりたいことを手伝うと共に、制約する役目も持っていたのだが、2013年の長官人事で、支える部分だけを残して制約する部分を取り払ってしまった。縛られたくない権力、「非立憲主義」が現実のものになったのも2013年だったと思う。
 今はどうか。 NHKは? 日銀は? 大学は? メディアは? と考えたときに、社会の中で、政府を批判する力を持ったところを片端から潰して、「何にも制約されない権力」への強い指向がこれほどまで明々白々に現れている政治家は、これだけでも警戒しなければいけないだろう。
 最近出されたアメリカの『比較法』のテキストは、G20に目配りをした初めてのテキストであると言われているが、その中で、日本については、元首相の「ナチスの手口を学んだらどうか」発言が紹介されていて、他の国とは一線を画するような見方になりつつあることがわかる。2015年の「安保法制」についても、国民からの強い反対を押し切って強行したということも紹介されている。今まで最高裁が政府のブレーキ役になってこなかったことを考えると、他の国との比較においても、一元化傾向が強いことが明らかになっている。また一元化する中で、反論できない状況、十分な議論できない状況を一緒に作りだしている。特に放送メディアは著しく、日本を褒め称える番組や、政府見解をそのまま報道している番組が目立つ。日本には何も問題はなくて、むしろ北朝鮮や南シナ海のみに問題ありきといった記事が毎日のように流される。十分な情報がないまま、議論もできない状況が作り出され、一定方向に誘導され、それに反対する勢力に力を持たせない状況になっている。

■左か右かのレッテル張りは空しい

 私は「左だ」しかも「最も左よりだ」というようなことを言われますが、右だとか左だとかで双方が攻撃し合うという空しいレッテル張りはもう止めた方がいいのではないかと思うのです。左翼・右翼というのはフランス革命の後にできた議会で、左側の席に座っていた人たちがアンシャン・レジーム(旧体制)に反対する人たちで左翼、片方は守旧派ということで右翼と呼ばれたもので、二〇〇年も前につくられた分類です。
 私は、右翼だとか左翼だとか言うより、はるか前からある、知恵、良心、ヒューマニズム、そういうものに立ってそれが本当に人道に叶っているものなのか、恥じることがないかどうかで自分の行動を考える方がいいと思います。
 私は思想の勉強をしたことはないし、素朴な正義感とか、肌で感じる思いやりとか、まっすぐ生きているかどうかを判断の基準にして、共産党でも右翼の集まりにでも、呼ばれれば行って発言してきましたが、その方が、人の心に響くのではないかと思っています。

  

■国民投票は追認の手続き?

 「立憲主義」というのは「権力は抑制されなければいけない」という考え方で、日本では明治憲法と日本国憲法の二つであると説明されている。しかし、政権の側からは「聖徳太子」や「和」の議論などが強調される。「日本は聖徳太子の時代から法の支配にコミットしてきた」と言い、「日本では古くから憲法があったんだ」と思わせようとしている。しかし聖徳太子の「一七条憲法」は役人の心構えについて書かれているもので、近代憲法には入らない。
 安倍政権がこれを出してくるのは、故意に不明確にしようとしているからだが、そもそも、「立憲主義」という考え方のなかった時代との連続性でとらえることはできないはずで、恣意的である。


二、私たちは明治憲法から何を学んだか
■明治憲法は見てくれの立憲主義

 「神国日本」という考え方が、見えないまま、語られないで温存されたまま今日に残っていて、それがふっと現れたのが「生前退位」の話なのではないだろうか。天照大神(皇祖)が瓊瓊杵尊(ににぎのみこと=公孫)を降臨せしめた際に賜った「神の意志」であるということで、日本国は皇祖の子孫が統治すべき、万世一系の君主国であるとされていることは、他の国にはない特徴であることを直視しなければならないだろう。
 イギリスのエリザベス女王は人間である、これまでの国王もこれからの国王も人間である。ところが日本の明治憲法の場合は「神」そのものにしてしまっている。だから権力を抑制するのは難しい。「神」は合理性を超えたところにある存在だからだ。語られない、直視できないということはその存在の大きさを物語っているのかも知れないが、明治憲法下の立憲主義がなぜ失敗したのかを考えるときに、ここの部分は学ばなければいけないと思う。

■精神主義的君主制

明治憲法下では、国民は「人権」ではなく、君主から与えられる「臣民権」を「法律の範囲内」において認められるに過ぎなかった。
 例えば、「何よりも、天皇の生前御退位を可とする如き前例を今敢えて作る事は、事実上の国体の破壊に繋がるのではないかとの危惧は深刻である。全てを考慮した結果、この事態は摂政の冊立(さくりつ)を以て切り抜けるのが最善だ、との結論になる」(産経新聞7月16日・日本会議副会長小堀桂一郎氏)。
 日本会議のホームページで明らかにしている心情からすると、これは明治憲法下における日本に帰ろうと、ひと言で言うとそうなると思う。そもそも、このような発言をすること明治憲法下ではありえなかったということを改めて思いたい。国体に関わる、天皇の批判をするということなので、明治憲法下では弾圧されたに違いない。
 こういう表現を自由にできることは、それこそが「表現の自由」であり、これは明治憲法下からの大きな進展なのだ。それでもなお明治憲法下に戻りたいというのはどういうことなのだろうか。

■明治憲法は軍を統制できずに崩壊

 軍隊というのは、軍を支える大きな実力で、軍の統帥に関する天皇の大権は一般国務から分離していた。そして陸軍大臣、海軍大臣が現役の武官になる制度になっており、軍がウンと言わなければ内閣すらつくることができないことになっていたので、政治がストップしてしまった。
 結局のところ、明治憲法はこういうことを許してしまう憲法であったために、憲法で政治を縛ることが不十分になり、崩壊してしまったということだと説明されている。
 失敗して、とてつもない惨禍をもたらしてしまった以上は、明治憲法から何を学んだのかは、私たちにとっては原点から外せないことの一つであろう。あれだけの人の命が奪われ、障害を負い、財産をなくし、親を亡くし、子を亡くし、といったようなことが起こったこと、また、軍人が戦闘で命を失うならまだしも、餓えで亡くなるというのは、人命軽視も甚だしい。あるいは学徒出陣のようなことを政策としたのは、訓練をした分だけ、その労力とお金がその人間にかかっているから、学徒出陣の方が安上がりだったからである。そもそも、そのような政策は失敗に終わるはずのものだ。そんなことを考えると、二度と権力を暴走させないという、権力抑制は日本にとって、大きな課題になるべきなのである。
 今の議論の中で一番足りないのはどうやったら権力抑制ができるのかということであると思う。これについては、あまりにも関心が低いのではないかと思う。それは過去を胸に刻んでいないからというべきなのだろう。

三、権力統制の覚悟─九条・平和主義

 伝統的な憲法というのは、「憲法は国民とは関わらないで、法律ができて、初めて関わる」という考え方だ。しかしながら日本国憲法には、「国家」とは別に生身の人間が存在している。別に国民でなくてもいい。全世界の生きている人々、市民というレベルでも捉えている。国家=国民というのではなく、もっと突き放したところで見る視点があるのではないか。そういう視点が出てきたのはやはりあれだけの命が失われたことへの意識があるからだと思う。

 

憲法前文を見てみよう
(1)前文

 日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものであるわれらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。 
・・・われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。・・・

 日本国民と政府が別れていることに注目したい。国家が戦争を始め、戦争を終わらせるのである。しかしながら惨禍によって苦しめられるのは国家ではなく国民である。国家は崩壊する、瓦解することはあっても死ぬことはない。国家は決して満足することもなければ心を痛めることもない。惨禍に苦しむのは命を持っている私たちなのだ。そういう感覚の鋭さがあったから、この二つを区別したのではないかと私は思う。法律的に見ると日本国と日本国民を区別しないのが普通なのだが、あえて区別する意味があるのではないかと思う。

(2)衆議院事務局編「分類帝国憲法改正審議録 戦争放棄編」(昭和27年)

 これは幣原喜重郎さんが亡くなった後で出されたもので、吉田茂の序文の前に、幣原氏の「軍備撤退の決意」という文章が「外交50年」という書物から転載されている。転載の理由は、今でもなされているアメリカが作ったのだという議論を含めてアメリカ製日本国憲法などというようなことが言われているが、幣原氏のこの項を見れば、それは全く皮相の見(浅薄な考え方)にすぎないことが転載するゆえんであると書かれている。私が注目するのは幣原さんの意見を共有する人たちがいたことだ。それは「戦争によって国民に大変な思いをさせてしまった、だからこそ、政治の組立から改めなければならない」という、為政者の共有した思いだったと思う。 幣原氏の「聞け野人の声」には、野人がバスの中で「自分たちは目隠しをされてとさつ場に追い込まれる牛のような目にあわされた。だまし討ちにしたのは当局の連中だ」と言って怒り、その内にオイオイと泣き出したことに深く胸を打たれたことが書かれている。「衝撃的な場面を見て心を打たれ、日本国家再興においては、我々の意志でもない戦争に至らせることを、政治の組み立てから改めなければならない」と書いている。国民に、自らの意志でもないのに、結果としての悲惨さを与えてしまったことへの悔いが憲法をつくり出す原動力であったことをあらためて確認したいと思う。
 この当時、幣原氏の中では「野人」は主権者ではなかった。今日においては私たちは主権者であり、騙されたなどと言うことはもう二度と言えないのだ。これが、私たちが今学ばなければならないことの一つだ。
 日本国憲法の出発点は、「滅私奉公」、「お国のため」、「一銭五厘」、「産めよ増やせよ」を否定し、自由のために、一人ひとりの個人が尊重されるために、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすること」そして全世界の国民が安心して生存する権利を掲げている。
 お国のためではなく、「私があって国がある」と大転換をしている。12条、13条、24条の個人が一番根本にあるという考え方についても、帝国憲法改正の議論の過程の中で、今の国会からは考えられない密度の高い議論がされている。

第12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。
─自由、権利が憲法の一つの目的であること示している。

第13条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
─なかでも13条は憲法の神髄であるとされている。憲法は何のためにあるのかというと、自由や権利を、個人が自分のために選び取っていくことができる。これを侵害してはいないと国家に命じている。

第24条 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
2 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。
─ここでも個人という言葉が出てくる。「個人は尊厳を持つ存在だから尊重される」と理解できる。
 とすると、家族という集団の一番小さな単位の中で、個人の尊厳をうたい、13条で個人として尊重されるとうたっていて、日本国憲法は強く個人主義にコミットしていることがわかる。個人が一番大切だということを明らかにしている。

四、現在─改憲草案      

 ではこれらについて改正草案はどのような提案をしているかと言うと、「Q&A」には「人権を保障するために権力を制限するという、立憲主義の考え方を何ら否定するものではありません」と書いている。しかし、「行き過ぎた個人主義」というようなことを言っていたり、「人の迷惑ならない範囲での権利」と言い、何よりも憲法の神髄である13条をわざわざ変えて「個人」を「人」にしている。
 なぜ「個人」ではなく「人」なのだろうか。人として尊重されても個人として尊重されないことはありうるし、一般的に人道的な扱いをすれば「人として尊重」されたことになる。しかしながら個性を持った個人として尊重することにはならない。「行き過ぎた個人主義批判」、ご迷惑をかけない範囲での個人主義とはなにか、誰が迷惑であると判断するのだろうか。

■家族・個人─改憲草案24条       

 24条には新設された部分がある。「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない」。 彼らは世界人権宣言でも「家族の保護」ということが書いてあると説明している。確かに世界人権宣言は「家族の保護」をうたっているが、家族の中に個人主義が成立しない段階で「家族は助け合わなくてはいけない」とうたうのは、自由抑圧的に働いてしまう恐れがある。家族が大事という声が高まる中で、「家族条項」はどうおかしいのかは、女性の側からきちんと言わなければならない。そうでないと誰も言ってはくれない。
いろいろなところで「自由ではないと感じるのはどういうところですか?」と質問すると、「家族」と答る人が多い。家族は守ってくれる存在であると同時に自由を諦める存在でもあるのだ。今若い人にとっては「保育園落ちた。日本死ね!」もそうだ。預けられないことで諦めなくてはならないものもある。あるいは介護や育児やいろいろな仕事がある中で、その仕事をすると別の仕事ができないという形での自由の制約もある。当然女性がやるということになっていることを考えると、このような社会状況で家族に「助け合いの責務」を課すのは、根本的に個人主義とか、自由についての考え方が違うからだろう。こういう社会の中で個人主義を否定して、「家族の責務」というように変えてしまったら、後でもう一度日本国憲法に戻すのは無無理ではないかと思う。
 今は日本国憲法があるから、日本国憲法に書いてあるから議論できる。戦うことができる。これが変わってしまうと、今度は、戦う先が国際人権とかいうものになるとか、自然権のような日本の裁判所では難しい議論にならざるを得なくなり、戦うための武器を維持するのはかなり難しい状況にならざるを得ない。
 改憲案の「家族」とか、「人」というところは、日本国憲法が考えているところとは180度違う世界観がその背後に控えているのだということを押さえておきたいと思う。
 もし大多数の権力を持つ側が「良い」と考える世界観で、社会や個人の生き方が染め上げられるなら、その価値観を共有しない個人にとっては行き場所がなくなってしまう。しかしそれらの人々こそが、自由や人権といった考え方を最も必要としているのだ。人権や自由はマジョリティのものではない。自由や人権を必要とするのはマイノリティなのだ。マジョリティはお金も権力もあるのだから自分たちの思い通りにできる。そしてまた民主的政治過程を通してその思いを実行できる。ところがうまく通せない人がいて、民主的な政治過程で無理やり何かを押しつけることがあってはいけないから、自由を認める。それがもともとの「自由」の考え方なのである。
 マジョリティのための自由や人権はその名に値しない。それは「既得権」である。権力に異議を申し立てる際の武器が、人権であり、憲法なのだ。それなのに180度変わっている。そういう価値観で溢れている。憲法を「マイノリティには自由を与えない」と改正するのはいくら何でもできない。そんなことをしたら北朝鮮以上に孤立するだろうからできない。だからそっとやるわけだ。「衆議院の任期」とかそういう議論から始まって、知らないうちに社会の空気を変えていく。そっと別の価値観に置き換えようとする戦法がとられることだろう。だんだんに抵抗しにくいように、武器を取り上げていく、そういう形で変わっていくのではないだろうか。 

■天皇・国防軍・緊急事態条項      

  憲法は大きく分けて統治のしくみを定めているところと、人権について定めているところの二つになっていて、この二つは切り離されたものではない。もともと自由のために国がある。人権のために統治機構があるのであって、国家=国民=社会=家のような一体となった社会観の中で統治機構が定められるべきではない。自民党の日本国憲法改正草案には、権力の抑制に関心が低いという
際だった特色がある。
 改憲草案では、しくみそのもの、つまり、国会のあり方、裁判所のあり方などに関わる部分は現憲法と根本的な違いはなくて、字句的なものだったりするが、天皇、国防軍、緊急事態については、大きく変えている。天皇の権威をアップさせて日本国憲法以上の仕事をさせる。国防軍をつくって権力を集中させる。天皇については内閣が権限を持つ。国家緊急事態法についても内閣に権力を集中させる。つまり、自民党の憲法改正草案は内閣にもっと権限をということにほかならない。
 内閣に権力を集中させると、三権=立法・司法・行政(内閣)のバランスが壊れてしまう。例えば集団的自衛権を行使して国防軍を動かすといったときに、内閣の判断が適当かどうかを国会もチェックできる、あるいは緊急事態において最後の最後まで国会が関われるしくみ、あるいはそれを事後的に裁判所が正当なものであったかどうかを判断するしくみをつくるなど、他の権力に権限を持たせる規定を加えているならともかく、内閣の権力だけを強化して国会や裁判所の権限をそのままにするというのはやはり、権力抑制への関心が低いからと言わざるを得ない。
 特に裁判所は明治憲法にはなかった「司法審査権」が与えられたから、戦前のような軍部独走は起こらないと教わった人も多いのではないだろうか。
 改正草案が出された平成24年当時、もともとこれは、実現するためのものではなくて、玉虫色だから中途半端な部分があるのだという議論があった。しかし私は何度も読んでいるが、この草案は、かなり神経を使って言葉を選んでいると思う。単語一つ取っても理由がある。それらを考えるとかなり意図的なものなのではないか、つまり内閣に権力を集中させて、その一方で国会や裁判所には手を付けないのは意図的なものではないかと考えている。
 国家・社会・家族・国民が渾然一体となっていて、国家がいいと思うことは国民にとってもいいことだ。国家が何をしようと、それは国民にとって良いことだ、つまり「お国のために」に近い発想ではないのか。このような発想は権力抑制の考え方では起こらないはずであり、驚くほど論理が一貫している。
 平成24年に改正草案がでたときの憲法学界の一般的な扱い、反応は、相手にしないというものだった。相手にする価値はないと。しかし、これはこれでかなり整合性がとれていて、ここに掲げられている国家観は「お国」と私たちなのであり、その中で、国民に「憲法尊重義務」があり、「国旗国歌条項」があり、というものであり、侮ってはいけないと思う。彼らの考え方は一貫しているということはもっと強調されなければいけないのではないだろうか。侮れない。
 「緊急事態条項」なら「緊急事態条項」だけを取り上げてはいけない。「国防軍」とか「二四条」とか、単一の条文を取り上げるのではなく、どういう脈絡でこれらが出ているのかを見ていかなければいけないと思う。ただ、実際の憲法改正は内容的に同一のものをまとまりで出し、一気に憲法改正ということはできない。今の法律のしくみだと国民投票で一気に変わるということはない。しかも国民の中で改憲というと「九条改憲」という意識が強く、反対の意見が強いので、簡単には変えられないので「衆議院の任期」だったり、「緊急事態条項」だったり、あるいは見たこともないようなテクニカルな条文を出してくるかも知れない。それがどういう中で出てくるかを、勉強する上で忘れてはいけないと力を込めて言いたいと思う。
 もう一つは、この草案を一旦引っ込めて、公明党が飲める程度のものを出すといった形で、取り下げるかも知れない。しかし、これまでずーっとこういうことが多かれ少なかれ言われてきたのである。今までの歴史を見ると、1995年にも一度出して引っ込めているのである。なかったことにするという議論はできないはずだ。
 だから、これまでの過程も含めて、勉強しなくてはいけないし、あるいは他の人に話すときも、「これだけではなくて、今まで何を言ってきたか思い出しましょうよ」という形で言っていかなくてはいけないと思う。
 個人主義に対して非常に敵対的な言葉は、今は国会の議論は検索をかけられるから割に簡単に探し出せる。例えば「聖徳太子 和」という形で検索をかけると、自民党の議員の言葉が出てきたりするので、どういう議論がされているのかが意外と勉強しやすいと思う。通常、新聞等では報道されないような議論も多く、日本の国会のレベルはまだこんなものなのかと思うことが多くある。

終わりに      

 今の政治のしくみは、国民は主たる政治参加の方法として、選挙権を持っていて、選挙で一票を投じる。投じられた一票により一定数の人間がただの人から国会議員という身分を得て、国会を作り、国会の中から指名されて組閣し、内閣ができる。ここが政治部門として政治を行い、行き過ぎがあったり、私たちの生活の中でトラブルが生じたときに裁判所が判断をする。そういうしくみを回していこうというのが、日本国憲法の想定だったわけなのだが、今この選挙という次元でも機能不全が起こっている。
 この間参議院選挙があったが、「べからず選挙」であったことは多くの方が痛感されていると思う。いざ選挙に参加したい、こういうことをやりたいと思っても、いけないということがたくさんあって、プロでないとやっていいことといけないことがよくわからない。しかもプロでもこれは警察でないとわからないということもある。そういうことがあって、参加できない中で選挙が行われているが、これでいいのだろうか。
 この間、「合区」が憲政史上初めて行われた。私は先日、島根に行くことがあって、話を伺ったが、鳥取、島根というのは細長くて、600キロぐらいある。この状況では、現実問題として政治は遠くなったと言えるのではないだろうか。国民の政治参加という観点からすると大きなマイナスではないのか。
 三権の関係を考えたときに、国会と内閣の関係が一つになってしまい、国会は存在意義を失っているように思う。2015年の安保国会は自殺行為だったのではないか、特定秘密保護法で自分たちの首を絞めるようなことをしてしまったのではないかと考えている。私は、これは立憲主義にとって大変な傷を負ってしまっていると思う。
 裁判所はどうだろう。私は「腹をくくらなければいけない」と裁判所に言いたい。バランスを取る機関がなくてはならない。その一番大きいのが国民なのだから、裁判所に「腹をくくれ」ということを言わなければいけないと思う。
 内閣の暴走を止められるものが、この間、多元的なものから一元的なものに外されてしまっている。
 そう考えると私たちの責務は大きい。止められるのは私たちしかいないのだから、諦めたら最後だ。諦めてはいけないし、憲法12条にあるように、「この憲法が国民に対する権利は国民の不断の努力によってこれを保持しなければならない」
 ─不断の努力なしには保持できないのだ。
 女性「九条の会」の動きもまさにこれを体現しているものだろう。不断の努力を私たちは責務として負っていて、それを果たしている。自由とか平等は何もしないで手に入るなどということはあり得ないのだ。守らないと手に入らないのだ。
 少しでも正義公正な社会、少しでも自由で平等な社会に近づくためには、私たちは大きなことを問われていると思う。                                                  (文責 小沼)

感想より
・オリンピックでの日本選手の活躍、伝統の復活(神社にまつわる行事の隆盛)、外国人による日本文化の礼賛、テレビがこういうものを盛んに番組に取り上げている。日本は素晴らしい国なのだ、日本人はすばらしい、という国民の意識が醸成されているが、私は戦前の世間のありようが思い出されて、このような状況を素直に喜べません。女性自衛官の訓練ぶりを先だってテレビで見たが、これも目的に向けてのもののように思う。世の中の空気がだんだん政府の目的に沿ったものになっていく。どうすればよいのか、自分の無力さが情けない。

・改めて改憲の恐ろしさを実感しました。私達も地域で憲法学習会を10年やっておりますが・・・。若者にどう伝えるか、若者に平和憲法の大切さをいかに伝えるかを知りたくて先生の本を買いました。やれることをコツコツやっていきます。これからも続けてください。

・先生の「状況認識」の中で会に参加しているような人たち以外の市井の国民には〝何が問題なの?〟〝違和感がない〟、〝別に~〟〝取り立てて変ではないのでは?〟などの空気がある。これは恐ろしい、と。そして「知らない間に社会の空気が変わっていた」となる。日本の国民の感覚に不足していることは何か。天皇に関する感覚とかなのか?先生の言う個人主義が大事ということなのか?もっと詳しく聞きたい。

・改めて改憲の置かれている状況、国民の責務、考えさせられました。自民党の改正案の全体構造も初めて見えてきました。人に語られるだけの力をつけなくてはいけない、語ろうと思わされました。

・自民党の憲法案が、理論構成も、ことばの使い方もよく考えて作られている、という指摘は、少しおどろきました。とんでもない粗雑なもの、というように考えていましたから・・・。よく読んでいなかったのだと反省しています。だからこそたくさんの人々が、この憲法に納得し、政府批判をしないのでしょう。どう反論するか、自分の学びが足りないのだと思っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

    


■「女性活躍推進政策」は女性搾取の政策

 女性活躍推進政策は、女性をいい気分にさせるため、「安倍政権って女性の味方」と思わせるための政策では決してありません。「女性活躍推進法案」というものの中味を読めば良くわかります。そこには、なぜ今、日本は女性を活用しなければいけないかということが書かれているのですが、それこそ、強い日本、強い経済を作り出すための成長戦略をより確かにするためで、「日本の基盤をより強固なものにするために女性の力を推進する」と法案に明記されているのです。この法案には、女性のために女性の活躍を推進するのだとは一言も書かれてはいません。女性の人権をよりしっかり確立するために、女性差別をなくすために、女性の活躍を推進するということは一言も書いてないのです。
 ようするに「女性活躍推進法案」は、今までは強い日本を取り戻すために十分に利用していなかったから、「利用資源としての女性をもっと活用する」ための法案なのです。この政策は別名「女性が輝く政策」と言っています。この「輝く」という言葉、英語では「SHINE(シャイン)」ですが、これをローマ字風に読むと「シネ」となりまして、安倍政権の女性政策は、強い日本を取り戻すために女性を死ぬまでこき使うという政策方針であるということが、はしなくも露呈しているということになります。
 同じように「地方創成」も、これは地方の地域共同体の崩壊を食い止めるためということではなく、「強いお国のために役に立つ地域経済に向かってガンバレ」と言っているだけの話です。すべてが強い日本を取り戻すためという方向に焦点を当てているのです。「大日本帝国」を取り戻すために、アホノミクスで「富国」を取り戻し、憲法改正で「強兵」を実現するというこの両輪に乗って「大日本帝国」を実現するという方向で、彼らは物事を考えているのです。ここを我々は見誤ってはいけないと思います。


■富国強兵まっしぐらの安倍政権

 安倍政権の動きについては、「アメリカべったりではないか」とか、「アメリカの言うことは全部聞いている」、「アメリカを喜ばせるために安保法制を進めているのだ」という批判が多いことはご承知だと思います。しかし安倍政権の本心はもっと怖いものなのです。一見、アメリカに言われたから頑張っているように見えていますが、実は彼らは自分たちの「大日本帝国」を立ち上げるために、アメリカを利用しているのだと思います。安倍首相は、第一次安倍政権の時代から「戦後レジウムからの脱却」という言い方をしています。すなわち、「戦前に戻る」ということです。アメリカとの関係は戦後レジウムそのものです。ということですから、戦後レジウムの脱却を掲げる彼は、「アメリカとは仲良くしていれば良い」程度の考えを持つという風に騙されてはいけないと思います。本音のところでは「アメリカとも戦争ができるようになればいい」というところなのかも知れません。というわけで、「大日本帝国」を目指して富国強兵まっしぐらである。それが「取り戻したがり病」に侵されているチーム・アホノミクスの正体なのです。
 その彼らにとんでもないところに連れて行かれるようなことがあってはならない。二度と再び「お国のため」にという言葉に惑わされることがあってはならないと思います。


■正義と平和が抱き合うとき、戦争なき未来が実現する

 正義と平和が抱き合うという言葉はキリスト教の旧約聖書の言葉です。旧約聖書はイエスキリストが出現する前の時代のものですが、その中に詩編という神をたたえる詩が編纂されています。その中に「慈しみと誠が巡り会い、正義と平和が抱き合う」という言葉があります。神の国においては慈しみと誠が巡り会い、正義と平和が抱き合うということです。さらっと読むと「美しい言葉だな」でおしまいになる言葉ですが、冷静になって考えるとこれはなかなか難しいことだと思うのです。神の国ではなく、我々の日常では「慈しみと誠はすれ違う」「正義と平和はいがみ合う」ことが多いことに思い至ります。自分が正しい、自分こそが誠を持っていると思っている人にとって、自分と違う誠を持っている人に対して慈しみ合うことができるだろうか。沖縄の二紙は潰してしまえと言っている人が、そうでない人に対してどれだけ慈しみを持つことができるのだろうか。反対にヤツらに対して我々がどれだけ慈しみを持てるかということでもありますが、人間にとってそれは難しいことなのです。国会でもそうですね。自分の主張ばかりを押し通して「こういう考えはどうですか」という質問には回答さえしません


。■多様性と包摂性が出合うとき、「排除なき未来」が実現する

 包摂性という言葉は日常的に使われている言葉ではないので、「包容力」と置き換えてもいいと思います。図の右上のコーナーは包摂性も高く、多様性にも富んでいます。我々が排除なき未来をつくるために目指す場所です。左上のコーナーは、包摂性はありますが多様性はなく均一性の論理が強くなっています。この場所は実は従来型の日本の経済社会です。日本型経済の特徴として、終身雇用とか年功序列制であるとか、護送船団方式などという言い方もされてきました。それは包摂性が高いと表現していいと思います。最後まで面倒を見ます、最後まで抱き止めてあげましょうというわけです。護送船団方式では、誰も置いてきぼりを食わない、みんなで隊列を組んでいっしょに行きましょうということです。ただし、包摂性の腕の中に抱き止めてもらうためには一つ条件があるのです。あまり人と違うことを言ったりやったりしてはいけない、出る釘は打たせてもらう。その代わり陥没した釘は引っ張り上げて横並びになる、それについてきてもらうことが条件だということです。
 右下のコーナーは、多様性は確保されているけれども排他性が勝ってきます。多様性と排他性が出合う場所です。残念ながら今のヨーロッパがそういう場所になって来ています。ヨーロッパというのは多様性そのものです。さまざまな民族、さまざまな歴史、さまざまな文化を持った国々が集まっています。ヨーロッパから多様性を取り除いたら何も残らないと言われるくらい多様性とヨーロッパは表裏一体の関係です。
 その多様な人々がお互いに抱き止めあいながら生活をしているのなら申し分ないのですが、今のヨーロッパは残念ながらお互いにいがみ合う方向になって来てしまっていると思います。ユーロという一つの通貨を持つという現実、それがあるためにと言うべきかも知れません。
 左下のコーナーは、排他性の論理が前面に出てきるところです。そして均一化の論理もあります。排他性と均一性が出会ってしまう場所です。それが暗黒空間ということになるわけですが、北朝鮮とかイスラム国も入ると思います。ロシアもだんだんそうなってきています。では日本の中にそういう空間はないでしょうか。日本の中の暗黒空間と言える場所は、「ハシズム帝国」、わかりやすく言うと大阪市だと思います。あの人も次第に影が薄くなってきていますが、チーム・アホノミクスの方へ急接近しているので、警戒する必要があると思います。そのコーナーには行きたくないところですが、今の日本は「強い日本・強い経済を取り戻す」「誇りある日本を取り戻す」ということでガンガン行けば、その一番行きたくないところに連れて行かれることになるわけです。


■狼と子羊がともに宿るとき、「共に生きる未来」が実現する

 これもやはり旧約聖書の一節で、イザヤ書の中にあります。「狼と子羊は共に宿り、豹と子山羊が共に伏す。子牛と若獅子が共に育ち、小さき子どもが導き行く」というフレーズになっています。小さき子どもとはイエスキリストの前兆ということになります。この「狼と子羊は共に宿り」は今のグローバル時代を考える上で非常に大事だと考えています。狼は強き者、凶暴なる者のイメージ、子羊は弱き者のイメージです。天の国では、最強にして最大の者と最弱にして最小のものが共に宿る、そして先頭に立つのが幼き幼児であるということです。私はグローバル時代を共に生きるというのはそういうことだと思います。グローバル時代というのは誰も一人では生きていけない時代なのです。「取り戻したがり病」に侵されている人々は、「帝政ロシアを取り戻す」ことによって、「大日本帝国」を取り戻すことによって、自力で最強の者になって生きていきたいと考えているということです。実はこれはグローバル時代を生き抜いていく発想と、最も遠いところにある考え方ということができます。


■「傾ける耳」「涙する目」「差し伸べる手」を持つ

 「戦争なき未来」「排除なき未来」「共に生きる未来」を私たちはつくり出すということですが、女性たちは自ずとこういうものをつくり出す特性を溢れんばかりに持っていると確信しています。それを確実に実現するための三つの道具を用意したいと思います。それは「耳」と「目」と「手」です。
 いかなる耳と、いかなる目と、いかなる手を持っていれば三つの未来をつくり出すことができるのかと言うことですが、我々が持つべき耳とは「傾ける耳」です、人の言うことを傾聴する耳を持つこと、自分とは全く異なる正義を持つ人の意見に対しても傾ける耳を持つ。どんなに遠くにいる人の、どんなに微かな助けを求める声にも耳を傾ける。
 我々の持つべき目は「涙する目」です。人の悲しみに涙することのできる目です。人の痛みを自分の痛みとして受け止めることのできる人でなければ、正義と平和を抱き合わせることはできません。慈しみと誠を巡り合わせることはできない。人の痛みを自分の痛みとして受け止めることができなければ、正義と平和を出合わせることはできない。
 我々が持つべき手は「差し伸べる手」です。人を痛みの淵から引っ張り上げる差し伸べる手です。この三つを持っていれば、「戦争なき未来」「排除なき未来」「共に生きる未来」を確実につくりあげることができるのだと思います。
 「傾ける耳」、「涙する目」、「差し伸べる手」の三つですが、思えばこの三つはチーム・アホノミクスが最も持っていないものということが言えると思います。彼らの耳は「聞く耳持たずの耳」彼らの目は「涙枯れし目」、元々持っていなかったのかも知れませんが…。そして彼らの手は、差し伸べる手ではなく「奪い取る手」です。「取り戻したがり病」の最も怖い点は、間違いなく「奪い取り病」に続いています。誰かから何かを取り戻すということは、誰かから何かを奪い取る、資源を奪い取る、市場を奪い取る、人権を奪い取る、言論の自由を奪い取るというようにさまざまなものを奪い取るチーム・アホノミクスが、我々をとんでもないところに引きずり込もうとしているのです。
 それをみなさまの「傾ける耳」、「涙する目」、「差し伸べる手」によって、彼らの野望を打ち砕いていきたいと思います。


■「戦争法案」衆議院で強行採決!
            
  「安全保障関連法案」(戦争法案)が衆院で強行採決されました。あれだけ多くの批判があり、違憲の指摘があり、安倍首相自身、「国民の理解を得ていると思えない」と言っているのに、この強行採決、まさに暴挙としか言いようがありません。
 ちょうど一五日の午後、世話人会を行っていたのですが、終了後、世話人数人は国会に向かいました。国会前に集まった多くの人々とともに、大声で、「ノー」と叫びました。
 しかし「戦争大好き一味」が国会で多数を占めていることの恐ろしさをしみじみ感じます。自民党の中にも良識派がまだおられると思うのですが、声も出せないようですね、どうすれば、私たちの「戦争をする国になるのはいやだ」の声を政治に反映させるのか、大変だと思います。でも、絶対あきらめないで、声を上げ続けましょう。
 女性「九条の会」も、これまでできることを精一杯やってまいりました。ご報告いたします。

■五月三日、憲法集会
 横浜の臨海公園での大集会に参加しました。天気晴朗ですが、陽射しが暑過ぎて、後ろの方の日陰に、女性「九条の会」ののぼりを立てて、周りの方にちらしをまいたりしました。一人で参加された女性の方とお話をしてお友達となり、会の「賛同者」になっていただけました。この日の模様、朝日新聞で空撮し新聞にも大きく載りましたが、私たち、後ろの方にいましたので、あの写真には写っていません。でもそれは、いかに多くの方が参加したかということでの証明でもありますね。私たちも憲法9条を愛する方が、こんなにたくさんおられる、ということを実感し、勇気が出ました。

■国会まえ行動 六月一八日には呼びかけ人の江尻美穂子さんが国会前でスピーチをされ、六月二〇日の「女の平和行動」には数人が参加しました。 「女の平和行動」は、女たちが赤い色のものを身に着けて国会を
取り巻こうという運動で、第一回は一月一七日でした。一月の時は、女性「九条の会」でなく、個人で参加したのですが、寒風の中七五〇〇人も集まった女性たちに本当に胸があつくなりました。
 二回目のこの日は女性「九条の会」として参加しようと、幟を持って参加。年寄りの多い私達ですので、初めから国会正門でなく、国会図書館の近くの大きな木の下に陣取りました。

 最初人が少なく思え、心配しましたが、猛暑なので、皆さん熱中症を避けたところに避難していた方が多かったのですね。時間になると、国会に包囲(女のチェーン)完成、戦争法案反対、平和が一番と何度も叫びました。チェーンは四回繰り返されましたが、女性「九条の会」のメンバーは最後までがんばりました。この日は一万五千人の女性が参加したと言います。

■諦めるものですか!
 こんなことをしても何になったか、法案は衆院を強行採決されたではないかと言われるかもしれません。でも、でも、だめでもダメでも頑張るしかないと思います。頑張っているうち、若い方の参加がだんだん増えてきたと思います。一五日の夜は若い方が随分みられました。効をそうして反対の世論が強まれば、内閣瓦解だってあるのではないかと思うのです。皆さんできることは何でもやってみましょう。署名、投書、地域の出身議員(与党の人にも)に手紙を出す。やれることはなんでもやりましょう。


■沖縄は頑張っています

 気温三四度、湿度七五%、連日一〇〇名を超える人が二四時間態勢。厳しい中にも時には歌や踊りもあって、楽天的で粘り強い抗議行動を続けています。ゲート前の座り込みは一周年を迎えました。
 他に例をみない悲惨な地上戦、栄養失調やマラリヤで多くの人々を失った収容所での生活。戦後にも続く占領軍による土地の取り上げ。事件、事故、爆音の被害。沖縄では今も戦争というものがよく見えます。だからこそ「命どぅ宝」。「金をもらえば納得する」式の仲井真前知事や百田発言は許すことができません。「オール沖縄」は県民の祈り、怒り、誇りなのです。辺野古新基地は安倍政権の狙う「戦争ができる国」の出撃基地です。
 やんばる統一連は、名護市内で宣伝を続け、全国に向けても発信しています。日を追って座り込みに県外からも参加者が増えています。「戦争法案反対」「人権と民主主義を守れ」と。「オール沖縄」から「オール日本」へ。このたたかいは、必ず勝利します。
 今が踏ん張り時です。                                        やんばる統一連 吉田敬子  

 

■署名に添えられたお手紙より

 署名、いろいろ働きかけてみました。さまざまな反応に力づけれらたり、ビックリしたり、意気消沈したり・・・自分が署名するのは慣れていたのですが、人にすすめるのは、今回初めての体験で、勉強になりました。姪の子供たちが、小4年と1年生が戦争は絶対反対イヤだという思いで署名していたと姪が手紙で知らせてくれました。感激しました。私が通っている体操教室で相手を選んで数人の方に署名をお願いしたのですが、教室の入口にすぐに「特定の政党への勧誘、物品の販売をお断りします」の貼り紙をされ、署名のお願いをやめたとたん剥がされ、疑心暗鬼になる思いもしました。
 いろいろな体験が、私の心の戦争反対への思いへと繁っていくと思います。国会のデモにも3回参加しましたが、行く度に人数が増えているのを心強く思います。集団的自衛権が夏に通ったら、ノーベルに平和賞もダメになるのではと心配になります。一応現在集まっている分だけ送ります。また。ゆっくり署名のお願い続けたいと思います。
                                                        市川市 大崎 美子


■訃 報  北沢洋子さん
 

 女性「九条の会」の呼びかけ人のお一人でいらっしゃった北沢洋子さん(国際問題評論家)が、七月三日にお亡くなりになりました。
北沢さんはお具合が悪かったに相違ないのに、一〇周年のつどいのために、メッセージをお寄せくださいました。、私たちは誠実なお人柄に甘えて、ニュースの巻頭言をお願いしたり、心から頼りにしておりました。またもや、素晴らしい方を失って残念でなりません。
                  

 

 





 

 

 


 

 


 

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