女性「9条の会」ニュース33号 2015年4月号

世界は大きく変化しています   小山内 美江子さん

今年は前半から荒れ模様である。
 今までのお付合いはマナーを守って、心から結婚を祝い、心からお悔やみを申し上げ、くれぐれも失礼のないように心掛ければ、それで良しとされたのが私たちの国の礼儀であった。
 けれど、それでは済まない大きな出来ごとが続けざまにやって来た。
 二〇年前の阪神大震災が常に平穏を願う人々の心をゆるがせ、〝ボランティア元年〟という言葉が生まれた。そして誰もが始めて経験する巨大な東日本大震災で、大津波と原発の恐怖が多くの命を奪って四年目に入っている。
 私たちが立ち上げたNGOからも次々と南三陸町へボランティアに入った。力持ちの若者が信じられない瓦礫の山と取り組み、シニアや女性たちは避難所や仮設住宅で独りになってしまったお年寄りや、遊び場を失った子どもたちの相手をつとめて悲しみと生きにくさを共有した。
 けれど更に人々を襲ったのは戦争である。宣戦布告もなしに始まった空爆が中東の人たちの平和な日常を
奪った。空襲の恐ろしさは七〇年前に経験させられているが、現在の爆撃機は無線操縦による無人機だったとは、子どものゲームではあるまいし涙も出ないではないか。それに対抗して暴れまくっているのが〝イスラム国〟と名乗る武装集団である。
 だが彼らにはその武器を造る技術はない。とすると誰かが彼らに渡しているはずで、憎しみの連鎖は安全な島国だと思い込んでいる私たちに激しい動揺を与えている。
 戦争の酷さを告発し続けたジャーナリストの後藤さんが斬殺され、ヨルダンの将校が生きたまま焼き殺されて誰彼なく凄まじい衝撃を受けたし、我が国のトップが「絶対許さない、我が軍を派遣する」と口走った。私たちの国には軍隊はないのに血迷ったとしか思えないことが恐ろしい。七〇年前、戦争に生き残った者は、これを命がけで阻止しなければならないだろう。世界中の国が、日本は平和を輸出する国だと信じ、みつめている。これを裏切ったならば、もう私たちに生きて行く道はない。   (脚本家・女性「九条の会」呼びかけ人)

 

学習会報告 日本は過去とどう向きあってきたか   講師 山田朗さん

 

1,首相の靖国神社参拝の意味を考える
 日本とアジアの歴史認識で最もギャップがあるのが靖国問題である。総理大臣の参拝を巡って近隣諸国から強い批判が出る。それに対して国内からは「何で亡くなった方を慰霊することに、外国からクレームがでるのか」という声が上がるが、靖国問題は「慰霊」というだけの問題ではないのである。

〈靖国神社とは〉

 戦前は、陸軍省・海軍省が共同で所管する、戦争政策と切り離すことのできない神社だった。靖国神社の前身は、明治天皇の指示によって一八六九年に九段に建立された「東京招魂社」で、ペリー来航以来の国事受難者や、戊辰戦争の官軍戦没者のために建立された。一八七九年に靖国神社と改称され、日清戦争以降の軍人・軍属戦没者を祀るようになるが、あくまでも官軍、天皇制軍隊の戦没者に限ら
れており、旧幕府側の兵士、民間戦没者軍法会議処刑者などは除かれている。
 戦没者は、本人の意思に関係なく一律に「護国の英霊」と称して靖国神社に合祀され、軍人恩給の受給資格も合祀されているかどうかが基準になっている。また、軍需工場で働いているときに空襲で亡くなった人は軍属として祀られたが、帰宅しているときに空襲に遭って死んだ人は、民間人として扱われるために合祀されず、軍人恩給から除外されるという矛盾もある。
 日本は、東京裁判で戦犯として処刑されたBC級戦犯を「国内法の犯罪者ではない」として合祀してきた。更に一九八八年以降はA級戦犯も合祀するようになり、近隣諸国から強い批判が出てくる。
〈合祀された戦没者〉
明治維新    7、751柱
西南戦争    6、971柱
日清戦争   13、619柱
台湾征伐    1、130柱
北淸事変    1、256柱
日露戦争   88、429柱
第一次世界大戦 4、850柱
済南事変      185柱
満州事変   17、176柱
支那事変  191、240柱
大東亜戦争 2、133、916柱
 
〈靖国神社の思想とA級戦犯問題〉

 靖国神社では、敗戦までは春秋の例大祭と、戦没者の合祀祭として臨時大祭が行われ、臨時大祭には天皇も参拝していた。
 当時、靖国神社に「英霊」として祀られることは天皇と国家への忠誠の模範であり、最高の栄誉とされていた。戦没者を神聖化する靖国神社は、軍国主義と戦争政策を支える重要な装置だったのである。
「国がやった戦争で犠牲になった人を、国が慰霊して何が悪いのか」と言う人たちがいるが、「慰霊」というのであれば、国内で犠牲になった一〇〇万人もの民間人や、日本よりも遙かに多いアジアの犠牲者も慰霊するべきである。靖国神社ではその人たちが無視されているばかりでなく、A級戦犯」が祀られているところに問題がある。
 周辺諸国の人々からは、八月一五日の「慰霊式典」への反発はない。アジアの人々は、A級戦犯の合祀を、侵略戦争の指導者が神として祀られ崇拝されていると感じ、総理大臣がA級戦犯を崇拝することは、戦争への反省のなさを示すものだと受け取る。
 日本政府は、一方で村山談話を出して、「侵略戦争を反省します」と言っておきながら、正反対の行動をとり続ける。そこが問題なのである。靖国神社にある遊就館に行くと、戦没者を尊いものとしていて、戦争への反省はみじんもない。戦争の性格を棚上げにした上で、無条件で犠牲者を神聖視している。
 多くの日本人は、戦没者はお国のために亡くなったと考える。しかし攻め込まれた国の人たちは大変な被害を受けている。その人たちが、その戦争を指導した人を祀ることに割り切れない思いを持つのは当然だろう。戦争というのは国内問題ではないのである。西南戦争を除いて、近代日本の戦争は海外で行われている。領土拡張であったりする。そういう戦争の性格を認識しないところに、日本の歴史認識の根っこがある。戦争犠牲者を神聖視することによって、多くの犠牲を出した戦争指導者の責任が曖昧にされてしまうのである。

〈東京裁判とBC級戦犯〉

 BC級戦犯の中には、はっきりした証拠もないのに処刑された気のどくな方もいる。しかし日本人の多くはBC級戦犯に対する固定したイメージを持っている。「私は貝になりたい」の影響が強く、下っ端の二等兵が理不尽な裁判で処刑されたという印象を持つ人が多い。しかし現実には二等兵で処刑された人は存在せず、処刑されたのは上等兵、下士官クラスで、命令を下す立場の人が多く、捕虜虐待の罪に問われた人もいる。もっとも数が多いのは独立運動を弾劾した憲兵なのである。

〈戦死者は犬死にか

「〝侵略戦争〟だったと言うなら、戦死者は〝犬死に〟したことになるではないか」、と言う人々がいる。戦争で死んだ人々の死を「犬死に」にするかどうかは、生き残った人々の、あるいは後世の人々が、その記憶から何をくみ取るかにかかっている。我々、そして未来の人たちの問題なのだ。靖国神社を考えるということは、日本がどういう歴史を歩んだのか、どういう戦争をしてしまったのかということを振りかえることなのである。 

2,政界に於ける歴史修正主義と「3談話」

【宮沢談話】  教科書検定で「侵略」を「進出」と書き換えさせたことが報じられ、国際問題になった時に出されたのが、「歴史教科書に関する内閣官房長官談話」(一九八二年八月二六日)である。この談話は、教科書検定における近隣諸国への配慮をうたった「近隣諸国条項」を生み出したが、談話の撤回を求める下村文部科学大臣の下で、今や風前の灯火となっている。

【河野談話】 「慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話」(一九九三 年八月四日)、この談話では、慰安婦の徴収、管理への国(軍)の関与と、強制性を認め、お詫びと反省を表明している。
 しかし、第一次安倍内閣の時に辻元議員の質問に答えて、安倍首相は、河野談話の通りであるとしながら、「また同日の調査結果の発表までに政府が発見した資料の中には、軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述は見当たらなかった。」と付け加えた。ポツダム宣言を受諾してからGHQが上陸するまでの二週間は、都合の悪い資料を隠滅するには十分な時間であり、記述が残らないのは当然なのだが、「見当たらなかった」という答弁が一人歩きを始め、「慰安婦は強制ではなく自由意思だ」「公娼と同じ」「一般売春と同じだ」とすり替えられていったのである。こうして、慰安婦問題は強制連行の有無に矮小化され、「日本人の誇りを傷つける」ようなことは無かったことにする動きが盛んになっている。

【村山談話】 村山内閣総理大臣談話「戦後五〇年の終戦記念日にあたって」(一九九五 年八月一五日) 
 村山氏は談話の中で、過去の「植民地支配と侵略」への「痛切な反省」と「心からのお詫びの気持ち」を表明した。
 これに対して安倍総理は、村山談話を継承するとしながらも、「二一世紀にふさわしい、未来志向の、安倍内閣としての談話を発出したいと考えている」と、産経新聞のインタビューに答えている。また、二〇一三年五月一五日の国会答弁では「侵略という定義は国と国との関係において、どちらから見るかということにおいて違う。」と発言。つまり、「相手が侵略だと言っても、こちらから見るとそうではない」と言っているわけである。それを問題にされると、党首会談で「私は植民地支配、あるいは侵略をしていなかったということは言っていない。しかし、それを定義する立場にはない。そういう謙虚さが必要だ。」と述べ、「侵略」について明確に述べないことが「謙虚さ」だという見解を示した。


3,現代日本人にとって「歴史認識」はなぜ必要なのか
〈なぜ歴史を学ぶのか〉

 歴史を学ぶということは、過去の歴史という鏡をつかって、現代人が見えなくなっているところを気付かせたり、過去の人々が得た経験や教
訓から学ぶことで、自分たちの未来を構想しやすくなるということなのである。

〈失敗を失敗と認め、反省することの大切さ〉

 過去の歴史には、理解しがたいこと、目を背けたくなること、傷つけられるようなことが数多く存在する。心情としては、そういうものは見たくないし知りたくないと思いがちである。だが、そうした負の遺産も直視する必要がある。負の遺産を直視して、失敗をくり返さないことが大切だからである。
 しかし、歴史を見る場合、〈失敗〉を〈成功〉と見てしまう場合がある。日露戦争で行われた作戦には失敗が非常に多く、例えばドイツの戦法をまねて、大砲の弾や鉄砲をふんだんに使って移動しながら戦うのだが、そのために、弾は開戦三ヵ月でなくなってしまった。兵士たちは弾丸の代わりに石を投げて戦ったという。政府は慌ててイギリスやドイツに弾丸の注文をするという事態が起きた。この事件はずさんな計画を反省するべきであるのだが、「勇ましく槍や刀で戦う、中世から続く戦法である〝白兵主義〟が元々日本には向いていたのだ」という総括をしてしまった。「日露戦争に勝利したのだからいいではないか」というわけである。その後、日本陸軍は太平洋戦争終結まで〝白兵主義〟を貫いた。失敗を失敗と位置付けることをしないと、後に更に大きな失敗がくるという一例である。

〈アジア職小と歴史認識の共通の土台をつくる〉

 植民地支配の処理を直視することなく、先送りし続けたことで、戦後七〇年経った今でも、周辺諸国との間に歴史認識の対立が存在している。戦後処理はまだ終わってはいないのだ。先送りすれば問題がなくなるわけではなく、それを引き継いだ人々は、実態を知らないのである。

〈植民地の歴史を認識することの意味〉

 アジアの人々との歴史認識の対立を克服するためには、侵略戦争の歴史を直視し、正確な認識を持つことが必要であり、実際に何があったのかを追究することが基礎になる。 
 加害の問題は放っておいたら消えてしまう。日中戦争に参加した兵士は大変多いのだが、そこで何が行われたかを家族に語った人は極めて少ない。日本人の多くは戦争の被害者でもあり、苦労した話はできれば忘れたいという気持ちが働く。加害を家族に伝えられないという気持ちと、忘れたいという気持ちが重なりあうため、戦争の記憶は薄れていく。忘れ去られるということは、二度とくり返してはならないような深刻な歴史の経験を生かせないことであり、失敗をくり返してしまう可能性も高いということなのだ。
 私が館長を務める登戸研究所資料館では、記憶や記録をもとに資料を集めて展示をしているが、そういう場があると「家にもこんなものがあった」「こんなことを言っていた」と教えてくれる人が出てきたり、風船爆弾の部分をつくっていた記憶を語ってくださる方が出てくる。それら断片的な記憶を集めていくと、戦争の実態がより明確になってくる。

〈戦後世代の戦争責任〉

 戦後世代にも、戦争がどのようなものであったのかを伝える責任がある。アジア全体にあれだけ多くの犠牲者を出した経験を、戦争を二度とくり返さないために伝えていく責任がある。「戦争責任」というと「償う」というイメージが強いが、それだけでなく経験を引き継いで伝えていく責任があると思う。一番まずいのは忘却である。同世代人同士では当たり前のことと思っていても、時代を重ねると当たり前ではなくなるのだから、伝えない限りは次世代に伝わらないで忘却されていく。
 日本の加害を伝えることを、「自虐史観だ」と言う人がいるが、「自虐」と「反省」は違う。反省なきところには何も生まれない。「どうしてそういう戦争をしてしまったのか」、「どうしてそういうところに行き着いてしまったのか」を知って、伝えていく必要がある。

〈アジア分断政策と日本〉

 欧米諸国がアジアやアフリカを侵略してきたことは紛れもない事実であり、今でも狡猾な対アジア戦略があることは確かだ。日本が明治維新を迎えた頃、欧米列強の矛先は中国に向かっていた。中国が宝の山で、それをいかに収奪するかを考え、日本をそそのかして、中国に進出させて、中国中心の東アジアの体制を破壊しようとした。日本はそれに乗って進出する。進出しすぎると今度は日本にブレーキをかけてくる。
 同じような関係が中国とインドの関係にあった。中国とインドを分断する。日本と中国を分断するという戦略をとってきた。今はアメリカではあるけれども、今でもその枠は変わっていない。分断することで漁夫
の利を占める国や企業があるのだが、日本はそれに乗っている。アメリカの世界戦略に躍らされている。

〈周辺諸国との付き合い方〉

 日清戦争の時に敢然と反対した人がいる。勝海舟である。勝は「今、清国は衰えているが、長い歴史の中ではこれを侮ってはいけない。付き合い方を考えなければいけない。
〝卑下せず争わず〟でいくべきだ」と言った。なお、勝は戦争中に亡くなった中国の海軍提督のことを称賛する発言をしている。勝は、日本、韓国、中国との付き合い方は、相争うのではなく、長い歴史を見据えた上での〈知恵〉が必要だと言っていると思う。明治政府は彼の言葉に耳を貸さずに、侵略戦争に突き進んだが、その当時にそういう発言をした人間がいたことが大事なのである。

〈質問に答えて〉

Q 中国と仲良くしようとするとアメリカの圧力がかかる中で、周辺国と自立的に付き合うには…?
A 民間交流が大切ではないだろうか。周辺国との交流のルートが公のものだけになってしまうと、建前に縛られて物事が進まない。
 民間のいろいろな部門で交流が深まって行くと、その部分部分は小さくても、トータルで見ると大きな人の流れができて、変化が起こる。また韓国や中国の人々にも、今の日本の問題点を知ってもらったりすることができる。今は政治問題や領土問題でぎくしゃくしているけれども、領土問題というのはつくられた問題なのだ。領土問題はすべてサンフランシスコ講和条約が元になっている。これには中国も韓国も台湾もロシアも参加していない。当事国がいないところで領土問題が決定されてしまったところに問題があるのである。
 領土問題では必ず相手が悪いという話になる。ナショナリズムに煽られて、勇ましい議論が出てきてしまう。そういう時にこそ、その衝突にどれほどのメリットがあるのかと、ちょっと突き放して考えて見ると、流れが変わっていくのではないだろうか。

 

「九条の会」全国検討集会に参加して

 「九条の会」全国討論集会は、三月一五日専修大学神田キャンパスで開催され全国の二八〇の会から四五二人が参加し、時間を惜しんで討論が行われた。呼びかけ人あいさつ、渡辺治さんの講演、小森陽一さんの問題提起、全国各地からの意見交換が行われ、澤地久枝さんは「私たちがすべきことは、命を守れない悲しさ、別れが心に残す傷に想像力を目覚めさせ、戦争の繰り返しをさせないため一歩二歩前に出ること」と結び、大江健三郎さんは「フィンランドの元大統領でノーベル平和賞受賞者マルッティさんが、世界の平和のために日本の〝九条の会〟の活動に希望を持っていると言ってくれた」と紹介した。
 渡辺治さんは「安倍改憲は何をめざすか、いかに阻むか」と題しての講演を行い、小森陽一さんは「平和的な外交交渉こそが平和な世界のために必要という人も、日米安保・自衛隊は認めるが海外で武力行使をしてはならないとする人も、解釈改憲で武力行使するのは立憲主義に反するという人も、一致して安倍に対抗する運動を作ろう。結成一〇年の七五〇〇余の「九条の会」が真価を問われる正念場となる二〇一五年である、と提起し、全国各地から集まった参加者からは、「山梨で初めて障害者九条の会を作った。障害者は平和でなければ生きていけない」「『美しい日本の憲法をつくる国民の会』がきれいな子どもの写真をのせて憲法改定を目指す一〇〇〇万人署名集めをしているが、こちらもきれいなビラで集会を呼びかけている」「自宅の周辺で活動することが大事」などなど、多くの経験と決意が出された。
 小森さんは「どの会も立ち上がり、日本を絶対に戦争する国にしないという世論を確固たるものにしよう。五月三日の憲法集会に大結集しよう」と討論をまとめ、参加者は「戦争する国ノー、改憲ノー」の決意を胸に散会した。女性「九条の会」からは七人が参加した。