女性「9条の会」ニュース49 号 2020 年3月号

 

1面  

   女性「九条の会」発足の思い                 江尻 美穂子 (女性「九条の会」呼びかけ人)

                                                                

 二〇〇四年六月に呼びかけ人九人による「九条の会」が発足し、「日本国憲法は、いま大きな試練にさらされています。九条を中心に日本国憲法を『改正』しようとする動きが、かつてない規模と強さで台頭しています。その意図は、日本を、アメリカに従って『戦争をする国』に変えるところにあります。私たちは、平和を求める世界の市民と手をつなぐために、あらためて憲法九条を激動する世界に輝かせたいと考えます。そのためには、この国の主権者である国民一人ひとりが、九条を持つ日本国憲法を、自分のものとして選び直し、日々行使していくことが必要です。それは、主権者の責任です。日本と世界の平和な未来のために、日本国憲法を守るという一点で手をつなぎ、『改憲』のくわだてを阻むため、一人ひとりができる、あらゆる努力を、いますぐ始めることを訴えます」という高らかなアピールを全国津々浦々に呼びかけました。画期的な出来事でした。
 私は、「九条の会」の呼びかけで会合に出た際に、参加者の多くが男性だったことに驚き、平和憲法を草の根で支えている女性たちの中に会をつくろうと、井上美代さんと相談し、本尾良さんに加わっていただき三人で、女性「九条の会」をつくる取り組みを始めました。
 十六人の女性たちに呼びかけ人になっていただき、様々なつながりを生かして全国各地に、「日本を再び戦争をする国にしてはならない。未来の世代に平和で健康な地球を残すために、憲法九条を高くかかげて、国際貫献をして行こう。思想・信条の違いを超えて団結することが必要である。この運動を、特に女性たちの間に広げて行こうとしております」と呼びかけたのです。
 どんな方にも賛同していただけるように、会費制ではなく、額の多少にかかわらないカンパで会を運営しようと決めました。その夏には六百余人の賛同が寄せられました。そして二〇〇五年二月二三日、女性「九条の会」は発足し、発足記者会見を行いました。会運営の世話人を決め、事務所を構え、ニュース発行、学習会開催など様々な活動を行ってきました。折に触れて、女性の問題についての声明・アピール・要請文による意思表明も行ってきました。
いま、十五年前の発足当時よりいっそう『改憲』の動きが強まっています。「日本の安全保障に関する法案」(「戦争法案」)、「国家機密保護法」、「集団自衛権」、「自衛隊の海外派兵」などが与党の数の力で押し通されてしまいました。しかし、日本国憲法は私たち日本国民のものとしてだけではなく、国際的な平和を守るために輝く存在となっています。二〇世紀の教訓をふまえ、二一世紀の進路が問われているいま、あらためて憲法九条を外交の基本にすえることの大切さがはっきりしてきています。
 女性「九条の会」の千七百人を超える賛同者の力で、安倍政権による改憲発議を止めさせ、憲法九条が生きる、豊かな暮らしと平和のために、声を大にしていこうではありませんか。会発足にかかわった一人として心から訴えます。
                                                             
 
                                       

2面〜8面                 女性「9条の会」憲法学習会      
                                                  
日時 2020年3月7日  於 文京区立男女平等センター
 
              「平和憲法」と歴史和解 ─排除された旧植民地出身者

              
           
       
                 講師 内海 愛子 さん

                     (恵泉女学園大学名誉教授 )

■敗戦―占領―独立

戦後も続いていた父系血統主義
日本国憲法には女性の地位がどのように位置づけられているのか、はじめに見ていきます。
日本国憲法が施行(1947(昭和22)年5月3日)された後、戸籍法(1948(昭和23)年1月1日)が施行されました。戸籍はこれまでの家を単位としたものから、妻と夫、氏を同じくする子供で編製されることになりました。婚姻届けを出すと、入籍ではなく新たな戸籍が編製されます。この時、妻か夫かどちらの氏を選択することができます。
国籍法が施行されたのが1950(和25)年7月1日です。この国籍法は「出生の時にが日本国民であるとき」に国籍を取得できるとありました。この父系血統主義は1984(昭和59)年5月25日の改正公布まで続いていました(1985年1月1日施行)。
この国籍法では、国際結婚をした日本人女性は子どもに日本国籍を取らせることができません。1873(明治6)年3月14日の太政官布告「外国人民ト婚姻差許条規」では、外国人の妻となった日本人女性は国籍を失うとあり、男性本位の「夫婦国籍同一主義」でした。これが1899(明治32)年4月1日には、父系血統と家族国籍同一の国籍法施行になっていきます。のちに、ある条件のもので妻と夫の国籍がことなってもいいことにはなりましたが、国籍継承における父系血統主義は1984年まで続いていました。
戦後の憲法の下でもこのような国籍法だったのです。留学をする女性、日本企業の海外進出が本格化する中で、国際結婚が増えていきました。その中で、私(日本人女性)が産んだ子が、なぜ日本国籍を取れないのかという疑問と抗議の声が高まってきます。1979年に「女子に対するあらゆる形態の差別撤廃に関する条約」(女性差別撤廃条約)が国連総会で成立し、 日本は85年にこれを批准し、同年、発効しました。だが、批准には三つの国内における女性差別の法令や制度を改正しなければなりませんでした。その一つが国籍継承における女性差別、もう一つが就職における女性差別です。男女雇用機会均等法ができました。罰則規定がないなどの問題がありましたが、取りあえず均等法ができました。そして、性別役割分業の解消のための家庭科の女と男の共修です。この三つをクリアしてようやく「女性差別撤廃条約」を日本は批准しました。

植民地支配と国籍
国籍法を女性の視点で考えると、このような「女性差別撤廃条約」へと繋がるわけです。もう一つ
問題なのは、植民地の問題です。1910年に日本は韓国を「併合」しますが、朝鮮には国籍法を適用していません。朝鮮人の日本国籍の取得喪失は、国籍法に準じた慣習と条理で決定されるというのです。「併合」によって朝鮮人は「日本臣民」にされたが、国籍法上の「日本人」には含まれないという扱いです。このような問題があるので、国籍の問題を考える時に、女性の視点と同時に、植民地支配の視点の両方を合わせもって見ていくと、憲法下での問題点が見えてきます。
平和憲法の下で、旧植民地出身者、具体的には在日朝鮮人がどのような処遇を受けてきたのか、植民地支配はどのように清算されたのか、いまなお「歴史和解」を疎外するものが何かを、簡単ですがお話しさせていただきます。

「日本国民とは」誰か
日本国憲法(1947年5月3日施行)は、「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通
じて行動し…」と始まります。この「日本国民」とは誰か。そして、「正当に選挙された」とありますが、敗戦の年の12月17日に衆議院議員選挙法が改正公布されていました。女性に選挙権と被選挙権が認められたことはよく知られていますが、この選挙法の「附則」には、「戸籍法の適用を受けない者の選挙権及び被選挙権は当分の間、停止する」とあります。「戸籍法の適用を受けない者」とは、具体的には在日朝鮮人、台湾人を意味していました。「朝鮮人を排除する」と書かないので見過ごされがちですが、「戸籍法」という言葉で朝鮮人台湾人を排除したのです。

三つの「戸籍」
改正前まで、在日朝鮮人の成人男子は選挙権をもっていました。なぜ、それがなくなったのか、問題は「戸籍法」です。生まれた時に出生届を出すと戸籍に記載されます。この時、日本国内に本籍がある人は「内地戸籍」(戸籍)に記載されます。同じ「日本臣民」でも朝鮮に本籍がある人は「朝鮮戸籍」に、台湾の場合は「台湾戸籍」に記載されます。大日本帝国の中に、内地戸籍の臣民と朝鮮・台湾の外地戸籍の臣民が存在していました。この戸籍間を自由に移すことはできません。例外は、身分行為、すなわち養子縁組とか婚姻の場合です。ですから、何年日本に住んでも、朝鮮人は「朝鮮戸籍」の「外地人」いう扱いになります。
婚姻による戸籍の移動ですが、日本の女性が朝鮮人男性と結婚した場合、内地戸籍から朝鮮戸籍に移ります。逆の場合、朝鮮人の女性が日本の男性と結婚した時には、内地戸籍に入ります。女は「嫁」に行く、親の戸籍から出て、夫の戸籍に入るという考え方です。
日本政府は、昭和14年ごろから「内鮮結婚」を政策として進めます。血による「内鮮一体化」、同化政策の推進です。総動員体制の中で朝鮮人を軍隊に動員していきます。「皇国臣民の誓詞」を言わせたり、神社参拝をさせたりしましたが、さらに、朝鮮人と日本人の結婚、「血による内鮮一体化」という同化政策を進めたのです。敗戦後、朝鮮半島にいた日本人が引き揚げますが、この時、「内鮮結婚」をした日本人女性は、朝鮮戸籍にあるので「朝鮮人」との扱いになり、日本への引き揚げを拒否された人もいました。
戸籍はともかく、日本国内にいると、国籍についてあまり深く考えませんが、支配をする人々、権力者はこれを統治に利用していきます。さきほどの「戸籍法の適用を受けない者」という記述もそうです。朝鮮人を排除すると書けばわたしたちにもわかりますが、さりげなく「戸籍法」、しかも付則にそのように書かれていると見過ごしてしまいます。女性参政権の方にだけ関心が集中しますが、当事者である在日朝鮮人や台湾人にはすぐわかります。彼らはこうした差別的な処遇に抗議し、権利を獲得するために運動をしてきました。するとすぐ、「朝鮮人が暴れている」などとメディアが報じたり、警察の取り締まりが行われました。

■「第三国人」とは誰?
1945年9月以後、敗戦後の日本には、連合国人と敵国人つまり日本人、そして、およそ200万人の旧植民地出身の人がいました。強制動員されたり、出稼ぎに来たり、先ほどのような「内鮮結婚」をした女性など、35年におよぶ日本の支配の間に、さまざまな理由で朝鮮人が日本に居住するようになっていました。当初、GHQは、朝鮮人を「解放国民」として扱うとの方針でした。彼らは、日本人ではないので敵国人ではありませんが、連合国人でもない。のちに、第三国のカテゴリィーに所属する人達、つまり、第三国人(The Third Nationals)と分類されていました。第三国に属する人々です。
日本の警察は、敗戦直後は、彼ら「第三国人」を取り締まる権限がありませんでした。在日朝鮮人や台湾人の人たちは帰国を急ぎ、雇用していた企業に賃金支払いなどもとめて運動もしていました。解放され、独立した旧植民地の人たちが生き生きと活動するのを目にした「敵国人」となった日本人は、いら立ちと敵意を抱き、椎熊三郎のように国会で「第三国人が暴れている」というような演説をした議員もいました。警察の取り締まり権限をGHQに求めたりしています。
その中で、戦前の「チョーセン」「鮮人」「アサ公」などという差別語にかわって、「第三国人」という言葉が、朝鮮人への反感、敵意をこめて使わるようになったのです。第三国人という言葉は、このように警察や政治家たち日本の権力者が使う中で、新たに排外主義、差別意識がこめられて広く使われるようになりました。

■排除された旧植民地出身者
重要なことは、敗戦後も1952年、日本が独立するまで朝鮮人は日本国籍をもっていたことです。
しかし、憲法施行の前日、昭和天皇の最後の勅令「外国人登録令」(1947年5月2日公布・施行)がでます。これには、「台湾人および朝鮮人は、この勅令の適用については、当分の間、これを外国人とみなす」とあります。「外国人登録」を義務づけられ、「外国人登録証明書」の常時携帯と提示義務が課せられます。
朝鮮人、台湾人は、日本国籍をもっているが、この「勅令」で外国人と見なされたのです。「外国人とみなされた日本人」、こういう地位に在日朝鮮人たちは置かれたのです。なお、台湾人は解放後は希望すれば連合国の一員であった中華民国の国籍をとれました。日本にいる台湾人の中には、中国籍を取った人もいます。占領下では、朝鮮出身の朝鮮人、中国国籍をとった台湾人、取らなかった台湾人など法的地位が異なりましたが、日本政府は一括してかれらを「外国人と見なす」と、外国人登録を強制します。
女たちは選挙法が改正されて選挙権を手にしましたが、この時、旧植民地出身者の人びとが排除されていたのです。かれらがどう処遇されていたのか、ほとんどの日本人は考えてもみなかったというのが実情だと思います。

旧植民地出身者が国籍を失ったのはいつ?
それは日本が独立した時です。1952年4月28日、サンフランシスコ平和条約(対日講和条約)の発効に伴い、4月19日に民事局長が通達を出しています。
サンフランシスコ平和条約発効と同時に「朝鮮人及び台湾人の日本国籍を喪失したものと見なす」というのです。国籍選択は認めていません。サ条約締結までの交渉過程をまとめた外務省条約局の「調書」を見ていくと、アメリカ側は国籍選択権を提起していますが、日本側は認めない。「どうしても日本国籍を欲しければ帰化申請をすればいい」というのです。帰化を申請するには何十種類もの書類を出す、帰化を認めるかどうかは、法務大臣の専権行為です。
先の「調書」には、「占領下で朝鮮人が暴れている。彼らはほとんど共産主義者だ。できるならば全員、朝鮮半島に叩き返したい。しかし、今、叩き返せば殺されるから仕方がない」というような日本側の発言まで残っています。

「和解」を考えるために
敗戦と植民地支配清算
1943年11月27日の「カイロ宣言」には「やがて朝鮮を自由独立のものにする決意を有
する」とあります。1945年8月14日、日本が米英中に受諾を通告した「ポツダム宣言」には、「カイロ宣言」を履行すること、日本の主権と領土の規定、そして日本の戦争犯罪を厳しく裁くこと(第10項)、賠償の支払い条項(第11項)もあります。
第10項には、「我らの捕虜を虐待せるものを含む、あらゆる戦争犯罪はこれを厳しく裁く」と書かれています。「われらの捕虜」とは、アメリカ、イギリス、オーストラリア、オランダなど連合国の捕虜です。
では中国人はどうでしょうか。中国は連合国ですが、日本は中国・重慶政府を交戦国とは認めていません。強制連行した中国人は捕虜ではなく、あくまで「華人労務者」だと主張しています。これが日本の考え方です。王兆銘政権を中国の政府と認め、そこと友好的な関係を結んでいるので「事変」の連続ではあるが、宣戦布告した戦争ではないとの主張です。そこで、強制連行された約4万人の中国人は、捕虜ではなくあくまでも「華人労務者」であると主張します。それに対して、中華民国は調査団を派遣して、日本に「捕虜として認めろ」と交渉をしますが、日本政府は断固として認めません。
「われらの捕虜」――中国人捕虜をのぞくアメリカ、イギリスなど連合国捕虜に対する虐待が極東国際軍事裁判いわゆる東京裁判をはじめとする戦争裁判で厳しく裁かれました。

戦争犯罪人を裁いた軍事法廷

極東国際軍事裁判(東京裁判)
「ポツダム宣言」を根拠に、ダグラス・マッカーサー元帥は、極東国際軍事裁判(通称東京裁判)の設置を命じます。1946年5月3日、東京、市ヶ谷台もとの陸軍士官学校の大講堂(現在の防衛省)で極東国際軍事裁判が開廷しました。11カ国の裁判官が並び、対面には28人の被告が着席しています。この中には2人の元朝鮮総督と1人の元朝鮮軍司令官がいます。訴因は55項目ありますが、その中に朝鮮植民地支配の問題はありません。裁かれたのは1928年以降の日本の侵略行為です。中国侵略(支那事変以降)、日本が署名しているパリ不戦条約以降の侵略行為です。それ以前の朝鮮、台湾は除外されています。彼らが問題にしているのは1928年以降の連合国――アメリカ、フランス、イギリス、オランダなどの植民地に対する侵略です。アジア太平洋戦争は中国侵略に加えて、帝国主義国家間の植民地争奪戦という性格があります。アメリカはフィリピン、イギリスはインド、ビルマ、マレー、英領ボルネオなど、フランスは仏領印度支那、オランダは蘭領印度(インドネシア)など、かれらの植民地を日本は奪取して占領支配しました。そこでの戦争犯罪が裁かれましたが、朝鮮、台湾の植民地での犯罪は訴因にはありません。

日本は誰と戦争をして、誰と講和を結んだのか
日本、日本、宣戦布告をした国は外務省資料では34カ国です。「が」と「に」の違いは重要です。日本が宣戦布告をしたのはアメリカと英連邦です。それ以外の国は相手国――「連合国共同宣言」に署名している国々が、日本に宣戦布告をしたのです。
開戦直後に日本は30万近い連合国の捕虜をつかました。そのうち帝国の本国兵すなわち「白人捕虜」を収容し、植民地から動員されていたアジア人兵士は「解放」しています。中には、捕虜から解放されたが、そのあとに労働者として使われた元捕虜もいますがーー。

「敵国」の民間人
それだけでなく、日本が占領した東南アジア各地にはオランダ人やアメリカ人やイギリス人などの民間人がいましたが、そういう人たちは敵国人になります。インドネシアにも10万人ちかいオランダ人、インドネシア人とダブルのオランダ民間人が住んでいました。その人たちも「敵国人」として有刺鉄線の中に押しこまれますが、敗戦近くになると全部、収容所に入れられます。
東京裁判で「Nippon Presents」という捕虜虐待の証拠映画が上映されました(1946年12月26日)。
日本は、戦争中に捕虜や民間人をこんなに優遇しているというプロパガンダ映画(Calling Australia)をつくっています。捕虜を虐待しているという抗議にたいして、反論を意図した映画です。捕虜がビフテキを食べていたり、クリケットをやったり、水泳をしている場面があり、いかにも宣伝映画(監督日夏英太郎,本名許泳)です。
では、捕虜の実態はどうだったのか、捕虜収容所の痩せ細った肉体の映像はよく出てくるのですが、民間抑留所がどんなにひどい状態だったか、これを写したフィルムと日本の宣伝映画のフィルムを交互に組み込んで編集したのがNippon Presentsです。これを東京裁判の法廷で上映したところ、余りの惨状に傍聴席の間からうめき声が聞こえたというのです。
収容所に勤務していた元日本兵は、食べ物がなくて体力が弱ってバタバタ死ぬ。いちいちお棺を造ってはいられないので、筵に包んでトラックに放り込んだと話していました。抑留所の少年たちが、その墓掘りに動員されました。そういう記録がオランダにたくさんあります。
生き残った人たちがつくった像――骸骨のようにやせ細った少年がクワを担いでいる像が、今、インドネシアのスマランにあるオランダ人墓地に建っています。これが抑留の実態です。その抑留所に勤務していたのが朝鮮人軍属でした。捕虜と民間人の収容所の監視員に朝鮮人が動員されたのです
フィリピンにはアメリカ人がいました。吉川英治が派遣されてフィリピンの民間抑留所を視察してルポを書いています。日本の避暑地のようなところでアメリカ人たちが良い暮らしをしているとのルポです。かれが訪問したのは初期ですが、これが戦争末期になると食料も医薬品も不足し、「生き地獄」のような状況になっていました。

4人に1人が死亡
ポツダム宣言で、「我らの捕虜を虐待する」の中身は、このような連合国の捕虜及び民間人への虐待です。東京裁判の判決では、アメリカと英連邦の捕虜の27%が死亡しています。4人に一人、オーストラリア人の場合は3人に一人が死んでいます。ドイツの場合は4%でした。そのぐらい日本の捕虜虐待がひどかったのです。私たちには見えない戦争の実態です。
1945年8月25日ごろになると、B29が日本の135カ所ある捕虜収容所に向けてパラシュートで物資を投下しました。「終戦の詔勅」が出されて半月もしないうちに物資を投下しています。
河辺虎四郎がマニラに降伏文書を受領に行きますが、その時に、「降伏文書に署名する時までに、全国の捕虜収容所の位置、どこの国の人が何人収容されているか、その名簿を出せ」と命ぜられています。収容所にはいち早く物資が投下され、アメリカ軍は上陸するとすぐ、収容されていた捕虜や民間人の救出にのりだし、戦犯調査を進めています。東南アジア各地でも同じです。そのくらい捕虜と民間人の虐待を連合国は重視していました。

BC級戦犯裁判について
東京裁判では人道に対する罪、平和に対する罪、通例の戦争犯罪で28人が起訴されました。BC級では、捕虜や住民虐殺、拷問、性暴力、虐待など 「通例の戦争犯罪」が裁かれました。4403人が有罪になっていますが、この中に148人の朝鮮人、台湾人173人います。
日本では横浜1箇所でBC級戦犯裁判が行われました。横浜法廷では、捕虜収容所関係、横になることもできずないようなひどい状況での輸送――死者が続出し生存者もやっと生きている状態だった地獄の輸送船内での捕虜の死亡、炭坑や工場での労働などでの、捕虜の処遇と虐待の証拠や証言が出されています。
日本国内は横浜だけですが、東南アジアではインドネシアだけで12箇所、フィリピンは「モンテンルパの夜はふけて」という歌がありますが、そのマニラ法廷、シンガポールではチャンギィーの法廷があります。現在、チャンギー飛行場の近くにミュージアムがありますが、そこでは日本兵がいかに残酷だったか、捕虜を虐待したのかが展示されています。

サンフランシスコ講和体制  朝鮮戦争・冷戦の中の講和

サンフランシスコ平和条約 日米安全保障条約(1951年9月)
1950年)年6月、朝鮮戦争が始まります。ここで占領政策が大きく変わります。戦争犯罪者の扱いも変わります。スガモプリズンを管理していたアメリカ第八軍の兵士が朝鮮半島に送り込まれると、その穴を埋めるために日本人の刑務官が復活します。
1951年9月サンフランシスコで講和会議が開かれました。49か国が対日平和条約に署名していますが、この中には中国の重慶政府は入っていません。中華人民民主主義共和国も大韓民国、朝鮮民主主義人民共和国も招聘されていません。植民地支配の清算を欠いた平和条約でした。講和会議で日本と講和を結んだ相手国は48カ国です。この48のなかに、フィリピンやインドネシアが入っています。なぜ、彼らが参加できて韓国や中国が参加を拒否されたのか。ここにも帝国主義国家間の戦争という視点を考えないと見えてこない問題があります(第25条)。
サ条約が署名された同じ日、日本はアメリカと日米安全保障条約を結んでいます。今日までつづく沖縄の闘いは、このサンフランシスコ講和体制が生み出したものです。アジアへの賠償を切り捨て、植民市支配の清算を無視し、沖縄を切り捨てた体制です。

戦争裁判の判決を受け入れる
サンフランシスコ平和条約第11条で、日本は連合国の戦争裁判の判決を承認し、「日本国民」である戦犯の拘留が継続します。「日本国民」の中には朝鮮人・台湾人戦犯が含まれるとの政府は解釈します。一方では、外国人と補償からは排除して行きます。「日本人」として刑を執行する、一方で、外国人として補償から除外される、こうした処遇が始まります。

「戦争犯罪人は犯罪人ではない」
占領下では戦争犯罪人は、日本の裁判所においてその刑に相当する刑に処せられた者と同様に取り
扱うべきものとする。という扱いですが、管理が日本に移った1952年5月1日、法務総裁の見解が
変わります。この解釈はもともと総司令部当局の要請に基づいたものであり、平和条約の発効とともに撤回されたものとするとなります。
1952年5月1日、各省庁に対して戦犯を国内法上の刑に処せられた人と同様には扱わない旨を法務総裁から通牒しています。犯罪人ではないという通牒です。巣鴨刑務所では、10月1日の衆議院選挙では、9月25日、在所者約300名が不在者投票を行いました。

「忘れられた皇軍」――排除された人々とその処遇

独立すると「戦傷病者戦没者遺族等援護法」や恩給法等が次々に出されます。援護法は4月30日に公布され、4月1日にさかのぼって適用されました。しかし、この援護法の附則にも「戸籍法の適用を受けた者に限る」となっています。日本国籍、戸籍をもたない者を排除しているのです。
4月1日から28日の間、朝鮮人は日本国民と見なされているので、国籍法ではなく戸籍法で排除しているのです。そして翌年、復活する軍人恩給では国籍で朝鮮人を排除しています。
大島渚の「忘れられた皇軍」というドキュメンタリーは、朝鮮人傷痍軍人・軍属がこの補償から排除されている現実を描いたものです。都合のいい時は日本人として使っておきながら、戦後になると日本人ではない、外国人だと言って補償から排除する。こういう処遇の矛盾を描いています。

BC級戦犯として
日本の植民地支配の清算は東京裁判では全く取り上げられなかった。それどころか朝鮮人・台湾人も天皇に忠誠を誓った日本国民だと、裁かれて処刑された人もいます。イギリスやオランダやアメリカが植民地支配を裁かずに、「日本人」として裁き、処刑したのです。日本がサンフランシスコ条約で独立をすると、朝鮮人たちは日本国籍を一方的に剥奪されて「お前ら今日から外国人だ」、こういう処遇になります。
仮釈放になって巣鴨刑務所を出ても行くところもない、「外国人登録をせよ」と言われます。それで朴昌浩(パクチャンホ)さんは出所を拒否しています。朝鮮半島から連行され、戦犯になってインドネシアから日本に送り返されたので、日本には知り合いはいません。また、「戦争犯罪人」ということで、事情を知らない在日朝鮮人たちも、対日協力者よほどの「親日派」だと思ったと思います。在日の人たちが、彼らを理解してサポートするまでには時間がかかります。孤立無援の中で、たまたま知り合った日本人がサポートしたのです。孤立無援の彼らは、組織をつくって日本政府に要求を出し、公営住宅に特別入居する権利などをかち取ります。しかし、都合のいい時は日本人、都合が悪くなれば外国人。こういう形で自分たちを使い捨ててきた日本政府に対して、彼らはその理不尽さを許せないと運動を続けてきました。今、お元気なのは李鶴来さん一人です。4月に95歳になりますが、まだ頑張っています。
シンガポールで死刑になった仲間は、李さんに「私がそんなに悪い人間ではなかったことを伝えて欲しい」と言って、絞首台にのぼったのです。死刑囚を見送ってきた彼は、日本政府に一言、謝って欲しい。お金ではない、極端なことをいえば一円でもいい。謝罪の気持ちで出してくれればと話しています。そうした気持ちを受けとめた動いた日本の政治家もいます。鳩山由紀夫さんもその一人です。土井たか子さんも支えてくれました。不条理な処遇を訴えた裁判もやりましたが、最高裁で敗訴しました。罪を犯した時は「日本国民」だったのだから刑は執行するという判決です。

市民運動の役割を考える
1970年ぐらいから日本の市民が植民地支配の清算の運動に取り組んできました。それまで、当事者が孤立無援なかで闘っていましたが、ようやく植民地支配、アジアへの加害責任の問題が広く認識されるようになったのです。これまで90件におよぶ戦後補償裁判がおこされてきました。韓国朝鮮が中心ですが中国関係の裁判もあります。
その一つに西松建設に強制連行された中国人の謝罪と補償要求の裁判があります。最高裁判決では、「サンフランシスコ平和条約がアジアへの個人賠償を認めていないので、中国へも認められないというのです。サ条約ではアジアへは生産物と役務という形の賠償です。賠償額を決めて道路をつくったりダムをつくったりということを日本企業がやってきましたが、個人補償はしていないのです。
サ条約で個人補償を認めてないので、その枠組みの中にある「日中共同声明」でもそれは認められないというのです。日韓条約も同じです。しかし、最高裁判決は、裁判では認められないが西松建設が敗戦後、国から補償金を受け取ったことに触れています。すなわち、華人労務者を連行したが戦争が負けたので、彼らは帰ります。損害を被った企業に、政府が損失補填を行っていたのです。それを指摘して、被害者に何らかの補償をするように促したのです。
弁護士も支援していた市民運動の人たちも動きました。中国では研究者がこつこつと実態を調べていました。その中で「謝罪し、補償し、そのことを次の世代に伝えていく教育」という3条件をきめ、西松と強制連行の被害中国人は和解をしています。
重要なのは次の世代に伝えていくということです。現在も西松と被害者の友好交流は続いています。被害者と市民が頑張って、このような「和解」を作り出したのです。
9条の会もそうだと思いますが、平和憲法を手にしているからこそ、私たちは未精算の植民地支配の問題に向き合える「加害責任」にも向きあえる。それを韓国や中国、台湾の人たちと共有する運動ができます。前の韓国の首相韓明淑さんは日本の集会で「憲法9条はアジアの共有財産だ」とはっきりおっしゃっていました。「日本が勝手に変えないで欲しい。9条はアジアの何千万もの人々の死、犠牲の上につくられた」と述べていました。彼女のこの発言を重くうけとめています。女性の視点と同時に植民地支配を受けた人々の視点から、憲法、そして9条を考えなければならいと思います。
一人ですべての運動は担えないけれど、徴用工の問題、「慰安婦」の問題――いろいろ問題があるのでどれか一つにだけこだわり続ける、その中から全体が見えてきます。しつこく、あきらめずに9条を活かし、守る運動を続けていきましょう。


                            幕張メッセでの武器見本市開催抗議集会に参加して          

                                  

2019年 月  日、千葉県の幕張メッセで開催された武器見本市「DSEI」抗議集会に参加しました。「安保関連法に反対するママの会@ちば」が地道な運動を広げていました。「DSEI」が英国以外で開催されたは今回が初めて。右翼団体が日の丸を掲げ、大音響で「売国奴」、「帰れ」などと騒ぎ、幕張メッセ側が警備員を動員して「横断幕をたため」、「旗を降ろせ」、「すぐさま解散しろ」とハンドマイクで邪魔だてする中、参加者410人が、見本市開催建物の入り口に集まりました。
 若い女性の進行で、毅然と抗議集会が行われました。リレースピーチは、この武器見本市が、どれだけ平和を壊すのか、どれほど多くの紛争地の市民を殺すことにつながるのか、いかに日本国憲法違反であるかを明らかにしました。安倍政権と、開催地として推し進める森田県政に怒りの声を挙げ、「二度と武器見本市に会場を貸さないで」の抗議ハガキも用意されていました。今後も注目し、みんなで声を挙げていきましょう。       (堀口暁子)

 

 

ページトップへ