女性「9条の会」ニュース19号 2011年10月号

報告  第2回学習会 「いま訴えたい 憲法・原発・平和」

 10月1日、婦選会館において、映画監督の羽田澄子さん、作詞家でもあり音楽評論家でもある湯川れい子さんをお迎えして、学習会を開催しました。参加者は50人を越え、お二人の講師の熱い思いが会場を熱気で包みました。紙面の関係で、お二人のお話の一部になりますがご紹介します。

    

 戦争と原発と        羽田澄子さん(映画監督)

 

 私は大正15年に旧満州の大連で生まれました。小学校一年生の時に満州国が建国され、五族協和の素晴らしい国にするのだと学校で叩き込まれました。小学校六年生の時に日中戦争が始まり、女学校に入って間もなくノモンハン事件というように、私は記憶が始まって以来ずーっと国は戦争をしてました。大東亜共栄圏という平和な世界をつくるための戦争なのだから、天皇のために働けというわけですが、私は本当にそう思って育ってきました。女学校に入ると、女の一番大事な仕事は良き妻であり、良き母になること、そして天皇のためにいい子どもをたくさん生むことであると、そればかりが強調されていました。女学校出るとお嫁に行く人たちが多かったのですが、私は旅順の女学校を卒業すると、自由学園の高等科に進学して寮に入りました。1942(昭和17)年のことです。戦争のまっただ中なので、英語は禁止、さまざまなところに動員されて、勉強はあまりできませんでした。昭和19年には学徒動員で中島飛行機製作所に動員されました。そこには他の女学校や小学生なども動員されて工場の寮に住んで働いていました。
 私は旅順や大連で、日本人が威張って、中国や朝鮮の人に殴ったり蹴飛ばしたりというようなひどい仕打ちをする姿をたくさん見かけて、嫌な思いをしていました。五族協和と言いながら日本の軍人の威張り方は見ていられない有様でした。しかし、日本の戦況はどんどん悪くなっていきました。昭和19年11月24日に本土空襲が本格的に始まり、中島飛行機製作所が一番先に爆弾を落とされました。寮は爆弾で破壊されて使えなくなり、私たちは今のひばりヶ丘にある学校の寮から三鷹の近くまで毎日歩いて通うことになりました。それ以来B29は頻繁に飛んできて、まず中島飛行機に爆弾を落とすようになり、クラスメートや工員さんが亡くなるなど、戦争が身近かなものになりました。工場の建物はみるみる壊れていきました。
 翌年3月そういう状況の中で卒業を迎え、空襲で壊滅した町をいくつも見ながら下関に着き、やっとのことで船に乗りましたが、前に出航した船は機雷に触れて沈没したということでした。
 大連では満鉄の中央試験所の有機化学研究室に就職しました。研究者でもない私私の仕事は、大豆油を使って石鹸をつくることでした。
 その研究室で敗戦の詔勅を聞きました。詔勅を聞いて、「なんだ戦争ってやめられるんだ。それならなぜもっと早く、広島や長崎に原爆が落とされ、沖縄は踏みにじられ、大都市は空襲で壊滅する前にやめなかったのか」と思ったものです。中央試験所もやめることになりましたが、やめるときに「何かあったときにはこれを使いなさい」と言ってくれたのは「青酸カリ」でした。その後でソ連が侵入してきたわけですが、私は「ああ満蒙開拓団」という映画をつくる中で、奥地の開拓団では多くの人たちが青酸カリを使って集団自決をされたことを知りました。
 大連にはソ連軍の司令部ができました。いろいろ問題はあったにしろ、よそに比べれば平穏に暮らすことができていました。日本で平和憲法が成立したことを知ったのも大連でした。私は1948年の7月まで大連にいましたが、その間、ソ連が編集した「民主新聞」という新聞を読んでいました。その新聞で、「平和憲法」ができたことを知りました。ソ連軍が入ってきたことで、町の環境は軍国主義から社会主義に変わり、今まで日本で発禁だった書物が市場に出てきました。私がそれまで全く知らなかったマルクスやエンゲルスなど、革新的な書物をそこで読むことになったわけです。大連でこれらの本を読んだことが私のその後の行動のベースになっています。
 私は福島第一原子力発電所を1976年に撮影しています。その時にまだ稼働していない東海村の再処理工場も撮影しました。地球時代というテレビ番組の一本でしたが、いろいろ調べている内に、これはとても怪しいと思いました。まだ第一原発が稼働してから5年目ぐらいでしたが、原発の人が「いかに原発は安全につくられているか」という説明をしてくれるのですが、その人の顔を見て「これは少し怪しいな」と思ったのです。理屈ではない。そういう感覚は意外に正確なんですよ。  
 東海村でも、「再処理というのは、プルトニウムという大変優れた燃料をウラニウムから分離して出している」という話を嬉しそうに話しているのですが、話している間にだんだん表情が怪しくなる。それで、実はプルトニウムというのはものすごく危険な物質で、これをちゃんと管理するのは大変なんだと最後に白状したわけです。私が一番問題だと思ったのは、放射性廃棄物の処理なんです。倉庫に連れて行ってくれたのですが、ドラム缶に入った廃棄物がたくさん並んでいるのです。まだ稼働してないと言われている時にすでにそれだけ並んでいるのです。これは将来どうするのですかと聞くと、「このままとって置きます」。いつまで保存するのですかと聞くとあと五百年とか千年とか。私はその時原発はダメだと思いました。今の利益に叶う物としてつくっていたとしても、いかに安全だと言っていても、そこでつくられた放射性の廃棄物をいかに管理するかということをまだ人類は開発していないわけです。それを立派な原発ができるからといって輸出するなどしたら、これから廃棄物がどれだけ増えていくか、私たちの後の世代がこれをどうするかは。大問題だと思うのです。私は原発には絶対反対です。

 
〝原発〟諦めないで反対し続けよう        湯川れい子さん(作詞家・音楽評論家)

 

 1999年に、私は内閣府の原子力委員会に在籍をしていました。この年に東海村の「ひしゃく事件」が起きたのですが、情けないことに24人の委員のうち、原発に反対していたのは2人か3人でした。
 日本の原子力の成り立ちはご存じだと思いますが、1953年に、国連でアメリカのアイゼンハワーが「アトムズ フォー ピース」というスピーチを
しました。原子力の平和利用ということです。その翌年、日本は原子力委員会をつくります。中曽根康弘さんがつくったのですが、原子力開発予算として国から貰ったお金は2億3500万円という金額でした。原子力委員会の初代委員長は、読売新聞社社主の正力松太郎です。
 1957年に原子力平和利用推進懇談会ができ、正力さんが〝原子力の父〟として初代長官になります。1963年に東海村にはじめて試験炉ができましたが、日本には核アレルギーがあるので、〝核発電〟とは言わずに、〝原子力発電〟と呼んだわけです。でも1945年に核爆弾が広島・長崎で爆発するまで日本の地上にはセシウム137というものはありませんでした。セシウム137は原子爆弾によって製造された物質なのです。同じものが原発の中にも含まれているということです。原発と原爆は同じお母さんから生まれた双子の兄弟なのです。
 福島第一原発は、1号機が3月11日に炉心溶融が起きていたことが後でわかりますけれども、津波をかぶる前に止まってしまって、その時から炉心を冷却できなくなっていたということです。電気が止まったのですね。そして12日に1号機が水素爆発を起こし、14日にプルトニウムのMOXを使っている3号機が溶融して建屋が爆発し、多量の放射能がバラ撒かれました。15日には2号機も炉心融合を起こして水素爆発を起こしますが、菅さんが、お辞めになってからこんなことを言っておられました。「3月15日の朝3時15分に東京電力から全員避難するという連絡が入った」というのです。あそこには6号機まであって、炉心溶融が地下まで行っているかもしれない。いつ再臨界に達するかもしれないのに、それを捨てて福島を引き払うと言ってきたわけです。それを菅さんは寒気がしたと言っておられました。もしそのようなことをしたらどうなると思いますか。 チェルノブイリの8倍ですよ。東京はもって6時間から8時間、福島から東京に至る範囲の人たちは全部逃げて下さいと言われたらどこに逃げられるのですか。
 野田さんは国連で「日本は世界一安全な原発をめざす」と演説しました。たった一カ所の原発の事故を収束できないのにですよ。それでなぜそんなことを国連で言えるのですか。それは言わせている人がいるからです。鳩山さんは国連でCO2を25%削減すると言って、日本に帰ってから足を引っ張られました。経済界や省庁や自民党、そして同じ民主党からもです。
 でもそこで勢いづいたのが原発産業です。クリーンエネルギーとして位置づけることができたからです。
 政権交代には少しは期待したのですが、民主党は2030年までにあと14基以上の原発をつくる、そして15年間止まっていた高速増殖炉「もんじゅ」を動かしてしまった。5500万円、今までに1兆円も税金を食べてしまった「もんじゅ」を、やっと先日諦めてくれると言いましたが、諦めて動かなくしても年間215億円かかるそうです。それは誰かがそれを仕事にして食べているということです。だから野田さんが「世界一安全な原発をめざす」と言って帰って来ても誰も文句を言わない、つまりその後ろには賛成している人たちがいかに多いかということです。
 原子力委員会には電力会社の社長、副社長クラスが入っていて、その人たちは自民党にお金を出してきました。その下で働いている東京電力総連には22万人もいるのですが、彼らは民主党の選挙を支援したのです。そして8740万円も献金をしています。そういうことがあったから「もんじゅ」を動かしのか…と思いました。それでも浜岡を止めて下さったのはありがたかったです。今までは誰にも止められなかったのですから。
 日本は小指の先ほどの小さな国で、しかも今地震の活動期に入っていて、多くの活断層が走っている島なんです。この上に原発を54基も建ててしまったというのはそれ自体がクレージーです。でもそのクレージーであることを誰も言えなくなるようにしてしまった。私が原子力委員会にいた期間の名簿を調べていただこうとしましたが、記録がないと言われました。原子力委員会に私がいたという記録はありませんというのです。ないはずです。日米の核持ち込みの記録も「ありません」というのですから。政府が捨てていたというのは昨日の裁判でもわかりました。それほどのものだということを覚悟しながら、 それでも声を大にしていかなくてはいけないのです。勝ち目がないほど相手は大きいのだと思いまう。サルコジさんが日本に飛んできたのも、クリントンさんが飛んできたのもみんな商売です。いかに安全な原発を日本に売るかというのがサルコジさんです。風呂桶いっぱいの除染に2億円かかるという機械を入れてもらったけれども結果は故障ばっかりでダメだった。そんな情けない状態なのに「世界一安全な原発をめざす」と言っているのが今の日本の総理なんです。でも私たちはそこで諦めちゃいけないと思うのです。女の人のいいところは諦めないところでしょう。私はいつまで生きられるかわかりませんが決して諦めません。